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連載・特集

緑地帯 フィリピンと加納莞蕾 加納佳世子 <6>

 フィリピンへ向けた加納莞蕾の嘆願活動は、元海軍少将古瀬貴季の助命を求める内容から、日本の戦争犯罪に対する反省と平和への提言に変わっていった。赦(ゆる)し難きを赦す奇跡を待ち望む―とキリノ大統領に訴えたのを始め、戦犯を収容する刑務所の所長、キリスト教会連合会の書記長ら、要人に書簡を送り続けた。

 1953年6月、キリノは療養のために渡米する直前に、古瀬を含め100人余りの日本人戦犯に対する恩赦を最終決断。翌月、入院先の病院でラジオの録音放送に臨み、日本人に向けて「真意」を伝える声明を発信した。

 「私は日本人に妻と3人の子ども、さらに5人の親族を殺された。私は子孫や国民に、友となり恩恵をもたらすであろう日本人への憎悪を受け継がせないよう、この措置を講じた…」

 その文面には、莞蕾が主張してきた「赦し難きを赦す」「憎しみの連鎖を絶つ」との思いがしっかりと入っていた。「莞蕾さん、よく頑張ったね」という人もおり、家族は「お父さん、これからは好きな絵をいっぱい描いてくださいね」とも言った。

 莞蕾はしかし、「赦されたということは、世界の平和をいかに築いていくか、大きな課題を与えられたということだ。甘えてはならない。赦しこそが復讐(ふくしゅう)だと思うべきである」と周りに説いた。

 その後、莞蕾はキリノに訴えた「閣下の愛児の名の下に赦せよ」の言葉を実践すべく、子どもの人権を擁護する国連宣言「世界児童憲章」の制定促進のために奔走するのだった。(加納美術館名誉館長=安来市)

(2016年5月4日朝刊掲載)

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