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社説・コラム

『潮流』 「謝罪」の根回し

■論説委員・石丸賢

 米国の大統領報道官が、オバマ氏の被爆地訪問は謝罪に当たらない―と予防線を張っている。広島や長崎の側にしても、過去への謝罪は求めないとする声が聞こえる。来るとも来ないとも決まっていない段階から何ともせわしない。

 だいたい、前もって「謝罪しますよ。いいですね」などと念を押してから発するような、おわびの言葉があるのだろうか。

 片山善博慶応大教授が鳥取県知事時代に、県議会とのやりとりを「幼稚園の学芸会」と皮肉っていたのを思い出す。議員はあらかじめ質問を県側に伝え、答弁の落としどころを根回ししておく。本会議では、予定稿を棒読みするだけだった。

 「学芸会」扱いは失礼かもしれないが、日米両国の間でも今回、水面下で発言内容の調整にあくせくしていることをうかがわせる。

 そもそも謝罪一つで「あの日」の惨劇は終わりはしない。終わりようがないのである。何となれば、謝罪を受けるべき被爆者は、既に大半が亡くなっているからだ。

 わが身に何が起きたか、分からぬうちにもだえ死んだ人がどれほどいただろう。原爆を落とした米国への恨みを抱いたまま、憤死を余儀なくされた人もいたに違いない。

 「まどうてくれ(元通りにしてくれ)」の声が、そこここに埋もれているのが被爆地にほかならない。せめて、生き残った被爆者の話に耳を傾け、原爆資料館の展示物に誠実に向き合えば、おのずと胸にこみ上げてくる思いもあるはずだ。

 演説上手のオバマ氏は、草稿作りに力を入れるという。大統領就任時には2カ月がかりで練り上げている。とはいえ発言の予定稿は、あくまで予定にすぎない。

 ぼうぜん自失の体で、思わず涙がこぼれてくる。例えば、そんな姿も十分に雄弁ではないかと思う。

(2016年5月7日朝刊掲載)

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