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広島一中13人 被爆死追跡 西区の浜田さん 「泉 第三集」を発行

 原爆投下の1年後に出された、広島一中(現国泰寺高、広島市中区)の生徒らによる広島初の被爆手記集「泉―みたまの前に捧(ささ)ぐる」編集メンバーで元中学校教諭の浜田平太郎さん(85)=西区=が、「泉 第三集―そのとき少年少女たちは」を発行した。原爆で亡くなった級友のうち、13人の最期を新たに突き止めた。(増田咲子)

 当時、一中の3年生だった浜田さんは、原爆で級友42人を失った。主に爆心地から約800メートルの小網町(現中区)一帯で建物疎開作業中に被爆して亡くなった。うち28人の最期を追跡し、2012年に「泉 第二集」を発行。その後、遺族らに聞くなどで最期が確認できた13人の1人が潮田玄一さん。弟が手記を寄せた。

 それによると、家族は近所のお手伝いさんから潮田さんの死を聞いた。「何回も夢の中で元気な兄が出てきた。生きていたのかと喜んだら夢だった。生前の兄の写真を見る気になったのは50年もたってから」

 田代能章さんの兄は母から聞いた話を手記で寄せた。田代さんは、責任感から家族の様子を見るために大やけどをしながらも自宅へ戻った。近所の人に母と妹が避難したことを確認後、学徒動員先の工場へ行こうとした。途中、休憩した橋の下で息を引き取った。「痛い」とか「苦しい」など弱音は吐かなかったという。

 「泉 第三集」では他に、一中と同じ小網町一帯や、平和記念公園(中区)辺りの作業に出ていて亡くなった旧制中学や高等女学校など16校の生徒についても、遺族の手記などを掲載。原爆の基礎知識も記し中学生でも読みやすいよう工夫した。

 「級友一人一人の顔が思い浮かんだ。生き残らされている者の義務として取り組んだ」と浜田さん。最期が分からないままの級友は残り1人になった。その追跡は、今回まとめきれなかった記録とともに第4集として発行するつもりだ。

 B5判、カラー、194ページ。300部印刷し、市内の図書館や原爆資料館などに寄贈した。

「泉―みたまの前に捧(ささ)ぐる」
 1946年8月1日に発行された広島初の被爆手記集。わら半紙にガリ版刷り、B5判、67ページ。県立広島第一中学校(現国泰寺高)と、県立広島第一高等女学校(現皆実高)の生徒ら39人が、原爆で亡くなった一中35学級(3年5組)の生徒らを追悼して寄稿した。両校の生徒は、今の広島市西区高須にあった同じ航空機部品工場に動員されていた。

(2016年5月9日朝刊掲載)

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