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連載・特集

70年目の憲法 第5部 私のメッセージ <2> 被爆者・中村澄子さん

9条の願い 多くの人に

 米国で被爆体験を語る時、私は最後にこう伝えているんです。「憎み合っても平和は来ない。米国人を憎みません」。だって世界中の平和を願うのが憲法のメッセージでしょ。聞いていた少年が「尊敬します」って言ってくれて、うれしかった。

 でもまだまだ伝えねばなりません。「原爆のおかげで戦争が終わり、多くの犠牲者が出るのを防げた」と言われた事もあります。そういう理解が根深くあることも感じました。

 2005年以降、日本被団協の派遣団の一員として計3回、核拡散防止条約(NPT)再検討会議に合わせてニューヨークを訪問した。市民や高校生に被爆の実態を語る。

 15年春の再検討会議は、被爆70年の節目だったのに残念でした。核軍縮への道筋を示す最終文書が採択されんかったでしょ。体験を語りながら注目していました。被爆国の日本がどうしてリードできんのんかね。米国への遠慮かね。それにしても日本の政治家は国際会議などの場で憲法、そして9条を誇って語ることがほとんどない。それがもっと残念なんですよ。

 原爆投下時、旧伴村(広島市安佐南区)の国民学校6年生だった。翌日、親戚を捜すため、父と爆心地近くに入った。

 その後、長く大きな病気もせんかったから、被爆者という自覚が薄かった。地獄のような光景を実際、目の当たりにしてたんですけどね。結婚に響くと思って無意識に「あの日」の記憶を消していたし、結婚相手を選ぶ際も被爆者じゃない人を自然と選んでいた。

 41歳の時に交通事故で夫を亡くし、その時、被爆者を避けていた利己的な考え方への罰ではないかと感じたんです。息子3人を育て上げ、60歳を前に、自分も被爆者に該当すると知り、被爆者健康手帳を取りました。世の中の役に立つことをしたいと思い、原爆や戦争体験を振り返るようになりました。

 三原市の本郷町原爆被害者友の会に入り、証言活動や核廃絶運動に励みました。その中で9条の重みを痛感しました。若い人は想像がつかないだろうけど、昔は空襲警報におびえて暮らすのが日常。戦争の歴史を反省し、不戦を宣言する憲法を定めた日本は立派じゃとつくづく思いました。

 被爆者の高齢化が進む。友の会の会員も今は10人ほどになり、存続も危ぶまれる状況になってきた。

 昨年、メンバー3人が亡くなった。私も8年前に脳梗塞、7年前に子宮頸(けい)がんを患い、足腰も弱ってきました。私は学者さんのように憲法についてうまく語れんけど、原爆を経験したものじゃないと語れない原爆の悲惨さを命ある限り証言していく覚悟です。9条のメッセージを一人でも多くの人に届けたいんです。(久保友美恵)

なかむら・すみこ
 1933年、広島市安佐南区生まれ。三原市の本郷町原爆被害者友の会副会長。64歳まで働き、退職後、地元を中心に証言活動を本格的に始めた。2005、10、15年の計3回、NPT再検討会議に合わせて渡米し、非政府組織(NGO)の集会や国連本部などで証言活動した。

(2016年5月11日朝刊掲載)

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