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Peace Seeds ヒロシマの10代がまく種(第32号) ヒロシマの菓子と復興

焼け跡に希望

 城下町だった江戸時代から菓子(かし)作りが盛んだった広島。明治、大正時代になると、伝統的な和菓子、海外から入ってきた洋菓子を人々は楽しみました。

 しかし、昭和に入って太平洋戦争が始まると、事態は急変します。菓子作りに欠かせない砂糖や小麦粉が統制品になり、原材料が入らなくなりました。菓子店は営業中止や廃業(はいぎょう)に追い込まれます。そして1945年8月6日の原爆投下が、追い打ちを掛けました。

 それでも戦後、「良い菓子を食べてほしい」と、菓子職人たちは焼け跡で立ち上がります。物資のない中でも、米国産の良質な砂糖を何とかして入手するなどして菓子作りを再開。市民の心を潤(うるお)しました。

 そんなヒロシマの菓子は、被爆から復興しようとする人々を勇気づけました。今も受け継がれる品々には、携(たずさ)わってきた人の強い思いが込められています。

<ピース・シーズ>
 平和や命の大切さをいろんな視点から捉(とら)え、広げていく「種」が「ピース・シーズ」です。世界中に笑顔の花をたくさん咲かせるため、中学1年から高校3年までの39人が、自らテーマを考え、取材し、執筆しています。

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鶴亀もなか

「めでたさ」分け合う

 御菓子所高木(西区商工センター)は1919年、左官町(現中区十日市町)で汁粉(しるこ)やぜんざいを出す和風喫茶店として産声を上げました。しかし原爆で店は全壊(ぜんかい)全焼。創業者の故高木松次郎さんも原爆で亡くなりました。

 おいの故神谷明雄さんが47年、高級和菓子の人気が出ると考え、和菓子店として再出発しました。「砂糖は配給のため十分でなく、米国産を手に入れて作っていた」。52年から職人として働く顧問(こもん)の沖本健次さん(79)は、苦しい時代をそう振り返ります。

 もなかに「鶴亀」の名とマークを付けたのは神谷さんの発案。55年ごろ「めでたさを分け合い、元気を出して頑張ろう」と復興への思いを込めたそうです。

 伝統の味を守り続ける加藤博基社長(53)は「菓子は人を平和で優しい気持ちにさせる。再び菓子が食べられない時代にしてはいけない」と力を込めます。(高1沖野加奈、中3プリマス杏奈)

氷牡丹

上品な色合いに季節感

 中区袋町にある和菓子店「多津瀬(たつせ)」の店主世良邦治さん(86)は、両親を奪った原爆の惨禍(さんか)を胸に、菓子作りに向き合ってきました。

 15歳だった県立広島第一中(現国泰寺高)3年の時、爆心地から約2キロの学徒動員先の工場で被爆。けがはありませんでしたが、平田屋町(現中区本通)で家具店を営んでいた両親は、近くの自宅で亡くなりました。

 戦後、少ない資金と場所で始められる和菓子店をしようと、修業して1953年に創業。工芸品を見て育った感性を生かし、開店から約5年後に卵白を使った「氷牡丹(ぼたん)」を生み出しました。つるりとした口当たりと上品な色合いが涼(すず)しげで評判となり、看板商品になりました。

 菓子に季節感を出し、茶道の「もてなしの心」を追究。「四季の変化に目を配り、恵(めぐ)みに感謝することで、生活は豊かになる」と強調します。人の心を満たすよう、真面目に菓子を作ることが、世良さんにとって平和を求める心につながるそうです。(高1岡田輝海、沖野加奈)

シェルス

ふんわり生地 優しさ醸す

 1923年創業の洋菓子店「ボストン」(中区小網町)。戦争を乗り越えスイーツを広めてきました。前社長の栗栖昭夫さん(79)は「戦後で物が少ない時期も、地道においしい菓子を作ってきたことが誇(ほこ)り」と話します。

 米国で修業した祖父が広瀬北町(現中区)に開業。戦前は、いま平和記念公園(同)になっている中島本町に喫茶(きっさ)店「アキヅキ」も運営し、繁盛しました。太平洋戦争が始まると砂糖の供給が途絶えました。金属供出で鍋も手放して営業をやめました。

 店は、父が終戦の年の秋に再開。それから約5年間は厳しい食糧(しょくりょう)難で、闇市(やみいち)で砂糖や小麦粉を入手しました。栗栖さんも夜間高校に通いながら店を手伝いました。復興のつち音が響(ひび)く中、でこぼこの道を自転車に乗り、喫茶店に菓子を卸(おろ)して回りました。

 再開時から作る貝殻(かいがら)形の焼き菓子「シェルス」はロングセラーです。ふんわりとした生地は、卵の優しい味がします。栗栖さんは現役を退きましたが「何十年たっても良い菓子を届けたい」。熱い心意気を持ち続けています。(高3谷口信乃)

柿ようかん

感謝の心 染みる甘さ

 戦前の広島の代表菓子、柿ようかんを知っていますか。西区商工センターにある平安堂梅坪は1918年の開業とともに作りだし、今も作り続けています。会長の竹内泰彦さん(83)は「菓子は人の心を豊かにし平和の心を養う。食べたら笑顔になる菓子を作りたい」と語ります。

 広島では江戸時代、干し柿が名産で、幕府に献上(けんじょう)されるほどでした。広島藩の地誌「芸藩通志(げいはんつうし)」にも記されています。小豆栽培(さいばい)も盛んでした。明治中ごろには、ジャム状の干し柿入りようかんがあちこちの店で作られて名菓(めいか)になりました。

 平安堂梅坪もその一つ。竹内さんの祖母が起こしました。しかし太平洋戦争で砂糖の入手が困難になり、菓子は「不要不急」の品に。軍に納める以外は製造中止になり、平塚町(現中区)にあった店は建物疎開で立ち退きになりました。

 復活は終戦から2年後。引き継いだ竹内さんの父は「良い菓子は良質な原料から」と、知人のつてを頼り、広島からロサンゼルスやハワイに移住した人から届いたグラニュー糖を買い集めました。大学卒業後、店に勤めるようになった竹内さんが57年、干し柿を刻んで入れる製法を考え、素材本来の味を生かすようになりました。

 県立広島第一中(現国泰寺高)1年だった竹内さんは「あの日」、体調が悪くて仁保町(現南区北大河町、爆心地から約3キロ)の自宅で休んでいました。建物疎開作業中や登校していた同級生をほとんど失いました。「自分は生かされた。求めるものを完成させてお客さまに提供し喜んでもらいたい」。柿ようかんの甘さに、平和へ感謝する心が染みているようでした。(中3プリマス杏奈、中2目黒美貴・写真も)

アオギリ

被爆樹木かたどり世界発信

 被爆樹木をイメージした菓子があります。フランス菓子店「ポワブリエール」(広島市中区)の手作りクッキー「アオギリ」です。

 2012年、店主で胎内被爆者の市原董永(まさなが)さん(70)が考えました。様々な素材や形を試した結果、アオギリの葉をかたどったバターたっぷりのクッキーに、ハッサクやレモンのジャムを挟んだ形で完成しました。

 市原さんが第一に考えているのは食べた時のおいしさですが、平和に関心を持ってほしいという狙いもあります。「アオギリという名前を聞いて、どんなものなのだろうかと考えながら食べてもらえれば」。日本語だけでなく英語とフランス語の説明書も添え、外国人にも伝わるよう工夫しています。

 実際に食べると、生地の食感と、瀬戸内が育んだ果物の爽やかな味が楽しめます。この小さな菓子から、ささやかな平和への願いが広がっていってほしいです。(中2目黒美貴)

(2016年5月19日朝刊掲載)

【編集後記】
 僕は洋菓子より和菓子の方が好きなので今回の取材がとても楽しみでした。和菓子は食べるだけのものではなく、見た目や名前にもこだわりがつまっているものだと気付きました。また取材後に「氷牡丹」や「柏餅」を試食させていただき、どれもすごくおいしかったので幸せな気分になりました。(岡田輝)

 今回が、私にとって初めての取材でした。実際に原爆や戦争を経験した人にしか語れない思いがあるのだと、分かりました。そして、戦後、菓子が多くの人を元気付けた事を知りました。好きな物を食べて笑顔になれることは、平和の証しだと思います。世界中の全ての人が笑顔になれる日が、来てほしいです。(沖野)

 みんなが大好きな「お菓子」。当たり前のように食べていましたが、職人さんの込めた思いや、歴史は奥深い物でした。各店がこだわりを持ち、平和への思いを強く感じました。菓子と平和は一見無関係のように見えますが、私たちが住んでいる広島の復興を支えてきた一因です。

 「菓子を食べることによって笑顔になる。笑顔になり、心が豊かになる。心が豊かになることは、平和を求める心を養っていく」。平安堂梅坪の竹内さんが教えてくださった言葉です。深い感銘を受けました。菓子から身近な平和が生まれる瞬間は、今でも生まれ続けていることに気付きました。(プリマス)

 平安堂梅坪、ボストン、ポワブリエールを取材しました。その中で一番感じたのは、菓子作りへの情熱です。それぞれに材料や製法へのこだわりがあり、伝統を守りつつ新しいことにも挑戦している様子が分かりました。まさに「プロ」という言葉がふさわしい人々でした。和菓子・洋菓子とジャンルは違っても、一つ一つの菓子にかける情熱は変わらず強いんだと感じました。(目黒)

 今回取材させてもらって、皆さんが第一に、菓子職人だということを強く感じました。どの人も、自分の仕事へのこだわりや思い入れといったことを話す時、目が輝いているのが分かります。僕も、何か人に誇れるような思い入れを持つことのできる仕事を見つけたいと感じました。(谷口)

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