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社説・コラム

『潮流』 「回天」と残された人形

■松江支局長・西山文男

 「戦時下、みんなが懸命に生きた。こんな時代があったということを伝え続けてね」。そう語り掛けた梶山美那江さんが3月、86歳で亡くなった。小説「黒の試走車」などで知られる広島ゆかりの作家、梶山季之氏の妻としてではなく、呉海軍工廠(こうしょう)への動員と、度重なる空襲を生き抜いた「銃後の少女」として聞いた話に、今も胸を締め付けられる思いだ。

 2002年春の取材だった。周南市大津島の回天記念館に、搭乗員の遺品として展示されていた「慰問人形」が美那江さんの作と判明した。赤ん坊を背負い、ねんねこを羽織った人形。ひもに墨書された美那江さんの名前を、かつての同級生が見学に来て見つけ、連絡を取った。

 思いもしなかった57年後の再会。美那江さんは、送られた写真の人形を見てすぐ、母親の着物の柄だと思い出し、涙がこみ上げたという。「〇六(まるろく)」と呼ばれた特攻兵器のバルブの製造に当たった日々がよみがえった。〇六が爆薬を搭載して敵艦に体当たりする人間魚雷「回天」と知ったのは戦後のことだった。

 美那江さんは02年4月、回天記念館で人形と対面した。その後、人形を残してミクロネシア連邦周辺海域での特攻作戦で21歳の命を散らした塚本太郎大尉(東京都出身)の墓に参った。その後も大尉の弟、悠策さん(80)=千葉県松戸市=と手紙を交わしていた。

 悠策さんによると、塚本太尉は2人の妹を思って人形を残し、母の着物で座布団を作ってもらい、特攻に赴いたという。「兄は死を覚悟しても何よりも強く家族への思いがあった。それは美那江さんにも通じていたと思う」

 家族を断ち切る戦争は二度とあってはならない。回天記念館の人形に託された美那江さん、塚本大尉の思いを継承していく意味をあらためてかみしめている。

(2016年5月17日朝刊掲載)

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