寄稿・菊楽忍 チェコで「ヤン・レツル展」 「ドーム」設計者 故郷で脚光
16年5月25日
原爆ドーム(広島市中区)の前身である広島県物産陳列館を設計したヤン・レツル(1880~1925年)の故郷チェコ・ナホトで、原爆の惨禍を刻むドームの破片が4月12日から初めて展示された。「建築家ヤン・レツル展」の9月までの実施をメールで知らせてくれたのはナホトに住む親族、イジ・ヘジャズラーさん(71)である。
会場は、レツルの両親が営んでいたホテルの跡地に立つ「ホテル ウベランカ」の広間だ。展示の責任は、ナホト市文化官でもあるイジさんの長男で同じ名前のイジさん(46)、企画は次男で建築家のパベルさん(38)が担った。
正面には、被爆前と後のドームの写真を大きくパネルに引き伸ばし、ほぼ真上から原爆の熱線や放射線を浴びたドームの窓枠などの破片4個を配置。左右には1915年に建てられた物産陳列館の設計図や、ドームの写真を配した説明パネル6枚と、レツルが愛用していたペンや両親のホテルで使われた食器などを展示している。会場全体はベージュを基調に洗練されたデザインが施されている。
レツルの存在は、故郷では長い間知られてこなかった。原爆投下に始まる東西冷戦下、民主化以前のチェコでは、西側諸国と関わる実績は無視されがちで、彼も例外ではなかった。
しかし、原爆ドームが96年に世界遺産となったのを受け、2000年に生誕120年の記念事業「ヤン・レツル2000」がナホトを中心に行われた。聖心女子学院(東京)の校舎なども設計した彼の歩みを紹介する展示会や、書簡集が出版された。卒業した工業高校は「ヤン・レツル高校」と改称された。
さらに、人気テレビ番組「建築探訪」が日本に残るチェコ人建築家の作品を取り上げ、レツルと原爆ドームについても、俳優で建築家のダビット・バーブラさん自らが広島を訪れて取材。11年に放送されて知名度を増した。
昨年4月5日が物産陳列館の開設100年に当たるのを記念し、筆者が勤務する原爆資料館では「原爆ドーム100年の記憶」展を開いた。そこで紹介したレツルの手紙や写真は、彼のめいで、ナホトに住み続けたイジさんの母エミリナさんら2人が大切に守ってきたものだ。
筆者が25年前に現地を訪ねたとき、「カフェでコーヒーをごちそうしてくれた優しい叔父さん」の思い出を話してくれたエミリナさんは92年に亡くなった。長男で工業デザイナーだったイジさんが、レツルの描いた油絵や北斎の浮世絵などを遺品として受け継いでいる。
開会式には、チェコのヤン・ハマーチェク下院議長も出席した。原爆ドームの破片は元安川から発掘され、昨年、広島大がチェコへ贈呈。議長は広島大での贈呈式に訪れてもいる。展示会場の写真も添えたメールで、イジさんは「息子たちの立案だから」と控えめに喜びを表した。
レツルの優美なドーム設計がなければ、原爆の惨禍を語り継ぐ遺跡は世界遺産登録で「Hiroshima Peace Memorial(Genbaku Dome)」とは明記されなかったであろう。ドーム前身の誕生から100年を超えた今年、レツルの故郷で彼の業績が紹介されたことは意義深い。ヒロシマとのつながりを研究してきた筆者にとってもうれしい便りであった。(広島平和文化センター職員、ヤン・レツル研究家)
(2016年5月25日朝刊掲載)
会場は、レツルの両親が営んでいたホテルの跡地に立つ「ホテル ウベランカ」の広間だ。展示の責任は、ナホト市文化官でもあるイジさんの長男で同じ名前のイジさん(46)、企画は次男で建築家のパベルさん(38)が担った。
正面には、被爆前と後のドームの写真を大きくパネルに引き伸ばし、ほぼ真上から原爆の熱線や放射線を浴びたドームの窓枠などの破片4個を配置。左右には1915年に建てられた物産陳列館の設計図や、ドームの写真を配した説明パネル6枚と、レツルが愛用していたペンや両親のホテルで使われた食器などを展示している。会場全体はベージュを基調に洗練されたデザインが施されている。
レツルの存在は、故郷では長い間知られてこなかった。原爆投下に始まる東西冷戦下、民主化以前のチェコでは、西側諸国と関わる実績は無視されがちで、彼も例外ではなかった。
しかし、原爆ドームが96年に世界遺産となったのを受け、2000年に生誕120年の記念事業「ヤン・レツル2000」がナホトを中心に行われた。聖心女子学院(東京)の校舎なども設計した彼の歩みを紹介する展示会や、書簡集が出版された。卒業した工業高校は「ヤン・レツル高校」と改称された。
さらに、人気テレビ番組「建築探訪」が日本に残るチェコ人建築家の作品を取り上げ、レツルと原爆ドームについても、俳優で建築家のダビット・バーブラさん自らが広島を訪れて取材。11年に放送されて知名度を増した。
昨年4月5日が物産陳列館の開設100年に当たるのを記念し、筆者が勤務する原爆資料館では「原爆ドーム100年の記憶」展を開いた。そこで紹介したレツルの手紙や写真は、彼のめいで、ナホトに住み続けたイジさんの母エミリナさんら2人が大切に守ってきたものだ。
筆者が25年前に現地を訪ねたとき、「カフェでコーヒーをごちそうしてくれた優しい叔父さん」の思い出を話してくれたエミリナさんは92年に亡くなった。長男で工業デザイナーだったイジさんが、レツルの描いた油絵や北斎の浮世絵などを遺品として受け継いでいる。
開会式には、チェコのヤン・ハマーチェク下院議長も出席した。原爆ドームの破片は元安川から発掘され、昨年、広島大がチェコへ贈呈。議長は広島大での贈呈式に訪れてもいる。展示会場の写真も添えたメールで、イジさんは「息子たちの立案だから」と控えめに喜びを表した。
レツルの優美なドーム設計がなければ、原爆の惨禍を語り継ぐ遺跡は世界遺産登録で「Hiroshima Peace Memorial(Genbaku Dome)」とは明記されなかったであろう。ドーム前身の誕生から100年を超えた今年、レツルの故郷で彼の業績が紹介されたことは意義深い。ヒロシマとのつながりを研究してきた筆者にとってもうれしい便りであった。(広島平和文化センター職員、ヤン・レツル研究家)
(2016年5月25日朝刊掲載)