×

社説・コラム

オバマ氏5・27ヒロシマへ 母国の原爆 家族奪う 日系2世の被爆者 定政さん 自宅あった公園で祈り

 定政和美さん(86)は1945年8月6日、母国の原爆を浴びて爆心地に入った。自宅は広島市中区の平和記念公園にあった。両親と姉の遺骨すら見つけられず、米国に帰り生き抜く。「世界の誰にも、あのような目に遭ってもらいたくない」。きょう27日のオバマ大統領の訪問を、日系2世の被爆者は再び暮らす広島で静かに見守る。(特別編集委員・西本雅実)

 「ここに今も眠っている気がして…」。3年前に戻ってからは墓参に公園を訪れているという。かつての住まいは「中島本町40番地の1」だった。

両親 中島に店

 シアトルで生まれ38年、両親の郷里に移った。父は先に帰郷して広島の繁華街だった中島本通りで食料品店「フジヤ」を開いていた。米国から届く新聞や短波放送に触れ、姉や兄との会話は英語。そうした日々は41年、日本軍の真珠湾攻撃で一変する。戦況が追い込まれた45年春、広島に第二総軍が置かれた。

 女学院専門学校(現女学院大)の姉は、日系女学生に命じられた短波傍受に動員された。三つ違いの兄は一中(現国泰寺高)から海軍経理学校に進んだ。

 8月6日、母千代子さん=当時(39)=は体調を崩し、姉恵美子さん=同(20)=が、一中3年の定政さんが動員先に携える弁当もつくった。父米男さん=同(45)=は「きょうは休まんか」と声を掛ける。それが両親らとの別れであった。

 さく裂の瞬間は、鶴見橋西詰めで建物疎開作業の訓示を聞いていた。爆心地の東南約1・5キロ、気付いたら荷馬車の下に転がり首や両手が焼かれていた。服に付いていた火を消そうと京橋川に入り、上がった。

 対岸の比治山(南区)で応急処置を受けて中島へ。「水、水…」。黒ずみうずくまった人たちの声が道々から聞こえた。元安川に架かる新橋は落ちていたが偶然、小舟が下ってきた。こぎ手に頼み込んで渡った。

 地表温度は約3千度を超えた爆心地をこう表した。

 「人がいなかった」

 息も詰まる熱さのなか誓願寺境内(原爆資料館の南)を走り、本川左岸から中島本通りへ。瀕死(ひんし)の中年女性と自宅跡前の防火水槽に上半身を突っ込んだ男性を見ただけ。慈仙寺鼻から相生橋を抜け、たどり着いた己斐(西区)の親族宅で倒れ込む。

 3年後。米国籍を取り戻してカリフォルニア州の花栽培農家で働く。尽力した兄文夫さん(2013年死去)は、広島に進駐した英連邦軍の通訳を務めた。

「生きるんだ」

 米国でも体のだるさに襲われた。「生きるんだ」。そのたび、夢枕に現れた両親の呼び掛けを独り反すうした。農園の季節労働を続けて54年から陸軍に3年間所属し、埼玉県に駐留。原爆はタブーであり、何より話す気になれなかった。

 除隊後は米航空会社から北米に進出した日本航空に転じた。出張で訪日すると、兄に家族をもうけることを促された。呉市生まれの妻と2男1女、サンフランシスコ郊外で暮らした。

 「父と母を合わせた年齢までは生きよう、と思ってきました」。原爆に強いられた半生を淡々と語った。広島へは妻敏子さん(81)の願いから戻った。熱線の傷痕が左手に残る。

 爆心地一帯のすさまじいまでの実態を克明に知る被爆者は、数少ない。あえて証言に応じた胸の内も語った。

 「原爆の恐ろしさ、悲惨さは二度と誰にも経験してほしくないからです。戦争のない世界を心から願います」

(2016年5月27日朝刊掲載)

年別アーカイブ