被爆者「共に前進を」 オバマ氏広島訪問 握手で言葉交わす 坪井さん「決して諦めない」
16年5月28日
ついに被爆地へ、原爆を投下した米国の現職大統領が足を踏み入れた。オバマ氏は27日、広島市中区の平和記念公園にある原爆資料館の見学、原爆慰霊碑への献花、演説表明、被爆者との対面と「歴史的な訪問」に臨んだ。1945年8月6日何が起き、続いているのか。核兵器がもたらす非人道性を伝え、「核兵器のない世界」をいち早く訴えてきた被爆者たちは、核超大国のリーダーに必死に思いを届けようとした。未来を受け継ぐ若者は、「核なき世界」に向けて具体的に行動してほしい、と演説に耳を澄ませた。人も街も消し去られた爆心地一帯にできた公園を市民が何重にも取り囲んだ。
原爆で心身を傷つけられ家族を奪われた。偏見や差別にも遭った。苦難から立ち上がった被爆者の全国組織、日本被団協の幹部3人が、平和記念公園でオバマ氏と言葉も交わした。
「時々広島に来て、見たり聞いたりを重ねてくださいと言うと、これ(握手)が強くなった。人を思う心が強い人なんじゃろう」
代表委員の坪井直さん(91)=広島市西区=は、記者会見で、オバマ氏との約2分の対話を握手の手ぶりを交え、興奮を隠せない様子で語った。広島工専(現広島大)3年の夏、爆心地から約1・2キロで一命を取り留め、教員を経て2000年から被団協を率いる。
オバマ氏は演説表明後、最前列に座っていた坪井さんに歩み寄ると、ほぼ手を握り合ったまま言葉を交わした。満面の笑みで応じた坪井さんは、つえを持つ左手の人さし指を胸に突きながら諭すように話し、当初は表情の硬かったオバマ氏も笑みを浮かべた。
坪井さんによると、原爆投下を「人類の歴史上、不幸な事柄だ」と対面時に話し、「私は核兵器廃絶を決して諦めません。恨みを乗り越え、人類のために共に頑張りましょう」などと通訳を介し伝えた。オバマ氏は何度も「サンキュー」と答えたという。
「米国の大統領が被爆者に耳を貸したんだから、今日から(核兵器廃絶へ)チャンスだ」と声を一段と張り上げた。半面、広島への再訪問を求めたのは、「原爆資料館を10分訪れたくらいで被害を判断されたら困る」と強調。さらに「表情や手のぬくもりから人格を感じたが、話はやや一方通行。オバマ氏からはっきりした言葉は、聞けなかった」と、被爆者とのさらなる対話を求めた。
同じく代表委員の岩佐幹三さん(87)=千葉県船橋市=は、時折うつむきながら演説を聞いた。
「自分は被爆者という運命を背負わされた人間。そういう運命と闘ってきた」。修道中専攻科1年だった。爆心地から約1・2キロの広島市富士見町の自宅で、母清子さん=当時(45)=とともに被爆。家の下敷きになった清子さんを助け出せなかったことを今も悔やむ。県立第一高女(現皆実高)1年の妹好子さん=同(12)=は、建物疎開作業に出て遺骨も見つからなかった。
「2人の死が無駄でなかったと思いたい」と対面に臨んだ。演説では「一つの人類として、お互いの関係を想像しよう」との言葉が印象に残った。「難しい国際情勢の中で、核兵器のない世界に向けて頑張っていると信じたい。一緒にやろうという言葉を、こちらから投げ掛けようと思っていたぐらいだ」と歓迎した。
オバマ氏の広島訪問は、被団協の結成60年の年と重なった。今回の行事は、政府から被団協代表委員と事務局長の出席を打診された。長崎で被爆した事務局長の田中熙巳(てるみ)さん(84)=埼玉県新座市=は「政府から声が掛かったのは、偏見と差別が根強かった時代から活動してきた先人たちの存在があってこそ」とかみしめた。
被団協は、84年に発表した「原爆被害者の基本要求」などで米国政府に謝罪を求めてきた。オバマ氏は「謝罪」と受け取られかねない言葉は発しなかった。
田中さんは、会見で謝罪がなかったことを問われ、「謝罪の証しは核兵器のない、平和な世界をつくることだと思っている」と強調した。「ヒバクシャ」という言葉が繰り返されたことに、「被爆者を知っている人の言葉のように伝わってきた」と評価した。
一方で、「核なき世界」を唱えた09年のプラハ演説から具体的な成果がないことを挙げて、「核兵器のない世界に向けて、どう前進するかが重要だ」と指摘。核兵器禁止条約を念頭に「次のステップは、人道的な観点からの廃絶だ」と訴えた。(藤村潤平、水川恭輔、長久豪佑)
(2016年5月28日朝刊掲載)
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原爆で心身を傷つけられ家族を奪われた。偏見や差別にも遭った。苦難から立ち上がった被爆者の全国組織、日本被団協の幹部3人が、平和記念公園でオバマ氏と言葉も交わした。
「時々広島に来て、見たり聞いたりを重ねてくださいと言うと、これ(握手)が強くなった。人を思う心が強い人なんじゃろう」
代表委員の坪井直さん(91)=広島市西区=は、記者会見で、オバマ氏との約2分の対話を握手の手ぶりを交え、興奮を隠せない様子で語った。広島工専(現広島大)3年の夏、爆心地から約1・2キロで一命を取り留め、教員を経て2000年から被団協を率いる。
オバマ氏は演説表明後、最前列に座っていた坪井さんに歩み寄ると、ほぼ手を握り合ったまま言葉を交わした。満面の笑みで応じた坪井さんは、つえを持つ左手の人さし指を胸に突きながら諭すように話し、当初は表情の硬かったオバマ氏も笑みを浮かべた。
坪井さんによると、原爆投下を「人類の歴史上、不幸な事柄だ」と対面時に話し、「私は核兵器廃絶を決して諦めません。恨みを乗り越え、人類のために共に頑張りましょう」などと通訳を介し伝えた。オバマ氏は何度も「サンキュー」と答えたという。
「米国の大統領が被爆者に耳を貸したんだから、今日から(核兵器廃絶へ)チャンスだ」と声を一段と張り上げた。半面、広島への再訪問を求めたのは、「原爆資料館を10分訪れたくらいで被害を判断されたら困る」と強調。さらに「表情や手のぬくもりから人格を感じたが、話はやや一方通行。オバマ氏からはっきりした言葉は、聞けなかった」と、被爆者とのさらなる対話を求めた。
同じく代表委員の岩佐幹三さん(87)=千葉県船橋市=は、時折うつむきながら演説を聞いた。
「自分は被爆者という運命を背負わされた人間。そういう運命と闘ってきた」。修道中専攻科1年だった。爆心地から約1・2キロの広島市富士見町の自宅で、母清子さん=当時(45)=とともに被爆。家の下敷きになった清子さんを助け出せなかったことを今も悔やむ。県立第一高女(現皆実高)1年の妹好子さん=同(12)=は、建物疎開作業に出て遺骨も見つからなかった。
「2人の死が無駄でなかったと思いたい」と対面に臨んだ。演説では「一つの人類として、お互いの関係を想像しよう」との言葉が印象に残った。「難しい国際情勢の中で、核兵器のない世界に向けて頑張っていると信じたい。一緒にやろうという言葉を、こちらから投げ掛けようと思っていたぐらいだ」と歓迎した。
オバマ氏の広島訪問は、被団協の結成60年の年と重なった。今回の行事は、政府から被団協代表委員と事務局長の出席を打診された。長崎で被爆した事務局長の田中熙巳(てるみ)さん(84)=埼玉県新座市=は「政府から声が掛かったのは、偏見と差別が根強かった時代から活動してきた先人たちの存在があってこそ」とかみしめた。
被団協は、84年に発表した「原爆被害者の基本要求」などで米国政府に謝罪を求めてきた。オバマ氏は「謝罪」と受け取られかねない言葉は発しなかった。
田中さんは、会見で謝罪がなかったことを問われ、「謝罪の証しは核兵器のない、平和な世界をつくることだと思っている」と強調した。「ヒバクシャ」という言葉が繰り返されたことに、「被爆者を知っている人の言葉のように伝わってきた」と評価した。
一方で、「核なき世界」を唱えた09年のプラハ演説から具体的な成果がないことを挙げて、「核兵器のない世界に向けて、どう前進するかが重要だ」と指摘。核兵器禁止条約を念頭に「次のステップは、人道的な観点からの廃絶だ」と訴えた。(藤村潤平、水川恭輔、長久豪佑)
(2016年5月28日朝刊掲載)
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