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社説・コラム

『潮流』 ある詩人の死

■論説副主幹・岩崎誠

 ヒロシマの歴史的な日に峠三吉の「原爆詩集」を読み返した。ガリ版刷りで世に出て、ことしで65年。

 「炎」と題した詩に目が留まる。「濃縮(のうしゅく)され/爆発した時間のあと/灼熱(しゃくねつ)の憎悪(ぞうお)だけが/ばくばくと拡がって。/空間に堆積(たいせき)する/無韻(むいん)の沈黙」。オバマ米大統領は、駆け足の被爆地訪問で足元にくすぶる沈黙の憎悪をどこまで感じたか。

 あえて峠の詩を引くのは彼に師事し、その作品を心の支えにした東京の老詩人の訃報ゆえだ。今月、84歳で旅立った山岡和範。私事だが母の兄である。

 広島県の大崎上島に生まれ、原爆には遭わなかったが広島師範学校、広島大の学生時代を被爆地で過ごした。峠が暮らす平和アパートに通いながら同人誌「われらの詩」の若き一員として詩作を語り合い、さらに朝鮮戦争で強まる危機感をともにした。病に倒れた峠に輸血もしたと聞く。

 やがて原爆詩集を手に、東京で小学校教員になる。その傍ら戦争を憎み、戦後日本の平和の揺らぎを問う詩集を幾つも出し続けた。

 「さかんに手をふる父の目がひかった/母の顔に涙がながれていた/その涙のことを/戦争が終わるまでぼくは/うれし涙だと思っていた」。父親が戦地に赴く場面だろう。戦時下から終戦後にかけた島の少年時代を描いた作品も多い。

 「広島から漁船で運ばれてきた友の顔は/ふくれあがってくずれ/どこが目でどこが口なのか/見分けることができない火傷をしていた/母親が泣きながら/でこぼこになった顔のへこみに/桃のかんづめを おそるおそる/押し込むようにして食べさせていた」

 峠ほど、言の葉の力があったかどうか。ただ時代の記憶を、詩に刻み続けた生涯を誇りに思いたい。

 おじがもう一カ月長生きしていれば、きのうの平和記念公園の喧噪(けんそう)を、どんな詩にしただろう。

(2016年5月28日朝刊掲載)

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