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連載・特集

緑地帯 運動の水脈をたずねて 丸浜江里子 <4>

 1945年8月、アジア太平洋戦争は終わった。東京・杉並は、中島飛行機の荻窪工場をめがけた空襲が18回に及び、焼け野原が広がった。引き揚げ者が戻ってきたが、戦中、曲がりなりにもあった配給は途絶。食糧不足が深刻な中、戦争を生き延びた元城西消費組合員は、新たに生活協同組合を結成した。

 加入を呼び掛けると町会ぐるみの加入が始まり、さらに枝葉のように主婦の会が連なり、杉並の地域生協数は全国一となった。食料の工面に必死になりながら、「もう戦争はこりごり」「なぜ戦争が起こったの」と考えるようになった女性たちは、読書会やサークルを立ち上げた。

 戦中の愛国婦人会につながる会も含め、40を超える女性団体が生まれ、杉並公民館長の安井郁の助言で杉並婦人団体協議会(婦団協)が54年1月に誕生した。婦団協はその後、原水爆禁止署名運動で最も活躍した団体である。

 その2年前の52年にも、杉並では重要な市民運動が起こった。中心人物は、山田洋次監督の映画「母べえ」に登場する「父べえ」のモデル、ドイツ文学者の新島繁である。吉田茂内閣が破壊活動防止法(破防法)案を上程すると、新島ら区民有志は、敬愛する仲間の命を奪った治安維持法の復活は絶対に許せないと、党派を超えた統一的な反対運動を広めた。

 「ばらばらに取り組んだら必ず弾圧される」と考え、全区的な運動をつくっていく知恵は、この頃から生みだされたのだろう。それは2年後の原水禁署名運動で大きく実ることになる。(都留文科大非常勤講師=東京都)

(2016年6月3日朝刊掲載)

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