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友への思い紙芝居に 廿日市の西岡さん 「生き残りの使命」 惨状描く

県立広島工業学校の同級生192人 原爆で犠牲

 県立広島工業学校(現県立広島工業高)1年生の時に被爆した西岡誠吾さん(84)=廿日市市=が、自らの体験や、爆心地近くでの建物疎開作業に動員されて亡くなった同級生192人への思いを紙芝居にした。タイトルは「少年・十三歳の原爆体験」。外国人にも伝えるため、英訳を進めている。(増田咲子)

 13歳だった1945年8月6日は、体調が悪く、建物疎開作業を休んだ。代わりに、爆心地から約2キロの千田町(現中区)にあった学校で軽作業をすることになっていた。しかし登校した直後、強烈な光を浴び、爆風で吹き飛ばされた。建物の下敷きになりながらも助けられたが、一人では歩けないほど顔や手足のやけどとけががひどかった。

 何とか歩けるようになった8月15日には、収容先を出て父の出身地である生口島(現尾道市)へ。伯母に看病され、45年12月に復学した。多くの同級生の死は、その時初めて知らされ、がくぜんとした。翌年、倒れた校舎の柱を切って作った慰霊碑を建物疎開作業の現場に建て、同級生のボタンや弁当箱を拾い集めた。そうした経緯を紙芝居につづっている。

 紙芝居作りは約4年前に構想。今年3月から本格的に取り組んだ。子どもの頃から絵を描くのが好きで、設備設計の仕事をしてきた経験も生かし、色鉛筆やペンで仕上げた。被爆当時感じた恐怖を思い出すと背筋が寒くなり、手が止まる時もあったという。

 A3判、27枚。コピー1セットを原爆資料館(中区)に寄贈。英訳は、知人が今夏までに完成させる予定。8月6日には、作業現場近くの「原爆遭難の碑」で遺族らに紙芝居の一部を披露する。西岡さんは「被爆の惨状を伝えるのは『生き残り』としての使命。亡くなった友達の供養になれば」と話している。

(2016年6月6日朝刊掲載)

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