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連載・特集

緑地帯 運動の水脈をたずねて 丸浜江里子 <7>

 1954年5月、東京・杉並で始まった水爆禁止署名運動はたちまち全国へ広がった。署名の集約を目的に、湯川秀樹、羽仁もと子ら12人を代表世話人とする原水爆禁止署名運動全国協議会(全協)が結成される。

 「僕は東京工業大の助教授でしたが、大学にも行けないほど忙しく、9月ぐらいから以後3年くらい、全然学校に行けなかったですね」。全協の事務局を担った畑敏雄さん(東工大名誉教授、元群馬大学長、2009年死去)は、私たちの聞き取りにそう振り返った。「講義は教授にやってもらって給料は取りに行く。のんきな時代でした」。運動への社会的な理解もあったとみるべきだろう。

 54年末までに2千万筆もの署名が集まった。運動が高揚する中、55年8月に第1回原水爆禁止世界大会を広島で開くことが決まる。資金はカンパと参加者の分担金で、宿泊は被爆者宅を含む民泊で、通訳は特訓した大学生で乗り切る。まさに市民の力で開いた大会だった。大会時点で署名は3200万筆に達した。

 全体会、分科会、民泊先で、被爆者は参加者に体験を語った。世界大会は、原爆被害の実態が広く知られる大きな力ともなった。

 他方で、原水禁運動の高まりに、米政府は神経をとがらせる。原子力に対する「日本人の根強い観念」を取り除こうと、原子力の「平和利用」を喧伝(けんでん)する方針を立て、日本の政府、科学者、マスコミへの働き掛けを強めた。55年から57年にかけ、広島を含む各地に「原子力平和利用博覧会」が米側の全面支援で巡回する。(都留文科大非常勤講師=東京都)

(2016年6月8日朝刊掲載)

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