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社説・コラム

寄稿・池田正彦 とと姉ちゃんと原爆の詩 凜として伝えたヒロシマ 大橋さん 「暮しの手帖」で特集

 NHKの連続テレビ小説「とと姉ちゃん」が好評という。ヒロイン小橋常子のモデルは、雑誌「暮しの手帖」を創刊した故大橋鎭子(しずこ)さん。主人公を演じる俳優にどこかご本人の面影を感じ、「ああ、こんな感じの人だったなあ」と一人、悦に入っている。

 というのは、1988年だから約30年前、私たち「広島文学資料保全の会」(以下、保全の会)は、大橋さんに大変お世話になったのだ。暮しの手帖社から出ている単行本「行李(こうり)の中から出てきた原爆の詩」の名を挙げると、思い当たる人がいるだろうか。

 保全の会は、その前年の87年に発足した。当時の代表幹事は、峠三吉の「原爆詩集」成立にも立ち会ったドイツ文学者の好村冨士彦広島大教授(故人)。初仕事は、峠が残した資料の整理だった。同年8月、峠のおいに当たる三戸頼雄さん宅(広島市南区)で膨大な遺品が見つかり、ただちに分類作業に入ったのだ。

 その中には、峠たちが52年、広島の小中高校や大学、文化団体を通じて募集し、一部を詩集「原子雲の下より」(青木文庫)に編んだ「原爆の詩」の原稿が大量に眠っていた。同書に収録されたのは124編。続編の刊行を期しながら、未収録で残されていた430編は、実に35年ぶりに日の目を見る貴重な原爆体験記であった。

 記者会見して公表すると、新聞各紙が報じ、それが大橋さんの目に留まったのである。私の手帳には、大橋さんが88年5月に広島へ訪ねてきたとの記録が残る。そして、「暮しの手帖」8・9月号に16ページにわたる特集が組まれた。

 「おばあさんは しにました/おかあさんもしにました/町の人もしにました/おとうさんもしにました/みんな みんな しにました(小学三年 谷崎友三)」=一部抜粋

 「これがせんそうかなと思った/平和よいつまでも戦争にまけるな(小学五年 迫田知昭)」=同

 こうした詩が28編掲載された。大橋さんは本号の「編集者の手帖」(あとがき)に、「戦争が終って四十年もたっているのに、まあ、と思い、もし、その詩を暮しの手帖にのせられたらと、心から思いました。(中略)いま、私たちは、この詩をのせさせていただいたよろこびと、その責任を、深く感じているところでございます」と記している。

 私自身は、特集のタイトル「行李の中から出てきた原爆の詩」に、正直「泥くさいなあ」とも感じたが、なにせ大橋さんが見られたのは、柳行李に入った発見時そのままの状態であった。しゃれた文句に向かわず、ずばりとシンプルに表現するセンスに脱帽である。

 この特集は90年、保全の会・編として収録作を74編に増やして単行本化された。発売日には、大橋社長が社員とともに東京・銀座の店頭に立ち、道行く人に宣伝してくださった。私は編集作業の「役得」で暮しの手帖社を3度訪れ、同社独特の「商品テスト」をする研究室に泊めていただき、大変快適だったのを思い出す。

 当時から保全の会が広島で目指してきた文学資料館の開設は、実現を見ていない。そして、被爆者が体験を語ることのできる時間は、もう多く残されていない。

 今、保全の会では、峠の「原爆詩集」草稿など、原爆文学資料を国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界記憶遺産に登録するための活動に力を入れている。「とと姉ちゃん」の凜(りん)とした面影に励まされ、不退転の思いを強めている。(広島文学資料保全の会事務局長)

(2016年6月8日朝刊掲載)

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