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連載・特集

緑地帯 被爆地で奏でる 能登原由美 <1>

 今や年末恒例の音楽行事となったベートーベンの「第九」の演奏会。広島で第九といえば、「第九ひろしま」を思い浮かべる人も多いだろう。地元の放送局、中国放送が企画して始めたものだ。30年以上にわたって続き、3世代で関わる家族もいるという。

 企画と製作を統括したのは、中国放送の社員だった才木幹夫さん。1985年に開館した広島サンプラザの「こけら落とし」として提案されたという。当時は珍しかった100人規模のオーケストラを編成するため、九州などにも応援を頼んだそうだ。

 市民公募で結成された合唱団は千人。その後はもっと膨れ上がり、「歓喜の歌」をともに歌う聴衆を含め「8千人の第九」とまで言われるように。この後、広島では多くの市民合唱団が誕生した。

 なお、第九が広島で全曲初演されたのは56年12月。当時の記事によると、広島勤労者音楽協議会(労音)の呼び掛けで、市民団体から集められた奏者によって演奏されたらしい。当初から広島では、第九は「聴く」よりも「奏でる」ものだったのかもしれない。

 才木さんは広島の音楽界にとても詳しい。第2次ベビーブーム世代の私は、被爆からの復興とともに歩んだ広島の音楽界の様子を想像することもなかった。そこで才木さんを介し、その様子を聞き取る行脚を始めた。

 往時を知る人々から教えていただいた広島の音楽の歩みを、この場を借りて紹介していきたい。(のとはら・ゆみ 「ヒロシマと音楽」委員会委員長=京都市)

(2016年6月10日朝刊掲載)

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