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社説・コラム

『今を読む』 立命館大教授・福間良明 

オバマ氏訪問を巡る言説 当たり障りなさ 本質覆う

 オバマ大統領の広島来訪を巡って、さまざまな議論がなされた。全国メディアでも訪問の前から特集が多く組まれ、当日や翌日の報道も、この話題一色と言ってもいいような様相を呈していた。

 原爆を投下した国家の大統領が広島を訪れ、追悼したことの意味合いは確かに大きい。米国の世論は原爆投下を正当化する議論がいまだ根強いにもかかわらず、広島来訪が実現したことは、ある面では画期的な出来事ではある。

 しかし、メディアでの議論が盛り上がりを見せた割には、それらは当たり障りのなさに終始していたように思える。さらに言えば、そのこと自体、当初から予想されるものでもあった。

 今回の論点の一つは、原爆投下の責任を認め、謝罪がなされるかどうかであった。しかし、それが望ましいこととはいえ、米国世論を考えれば、大統領個人の判断でなされることは考えにくい。また、これも十分に予想されたことではあった。

 むろん、謝罪がないことへの批判は各方面から出されていた。だが、その批判が重要なものだとしても、誰もが予想できるような批判だったとも言える。

 こうした中で思い起こしたのが、沖縄の作家大城立裕氏の「カクテル・パーティー」(1967年)である。

 芥川賞を受賞したこの小説は、戦後の沖縄を舞台とし、中国戦線に赴いた経験を持つ沖縄人の主人公、日本人の新聞記者、中国人の弁護士、そして米軍関係者の交友が描かれる。彼らの間には、幾多のタブーが存在していた。

 日本軍は中国のみならず沖縄でも住民に暴虐をなした。米国は戦後も沖縄を占領し、統治者として振る舞っている。だが、彼らの交流においては、それらに言及しない注意深い配慮がなされ、人間関係は平穏に維持される。

 しかし主人公の娘が米兵にレイプされたことから、彼らの関係に亀裂が生じる。米軍関係者は理由をつけては法廷証言を拒もうとする。中国人の弁護士に相談すると、かつて妻が日本軍に犯されたことを告げられ、南京で軍務についていた主人公はかえって詰問されてしまう。主人公はこれをきっかけに、彼らに対しても自分に対しても不寛容に振る舞おうとする。

 「このさいおたがいに絶対的に不寛容になることが最も必要ではないでしょうか。私が告発しようとしているのは、ほんとうはたった一人のアメリカ人の罪ではなく、カクテル・パーティーそのものなのです」

 オバマ氏の広島訪問を巡る議論のありようも、この小説を連想させる。責任や謝罪を巡る議論は行政レベルでは注意深く排除されていた。むろん、新聞やテレビで原爆投下の責任や日本の戦争責任への言及もなかったわけではない。しかし相手の胸元をえぐるような議論や、怒りを全身でたたきつけるような議論は、抑制されていたように思う。

 従来繰り返し主張されてきた議論も少なくはなかったが、相手に届けることがどれほど意識された批判だったのかどうか。むしろ、相手に届かないことをどこか前提にしながら、「いつもの議論」を繰り返すむきもあったのではないか。それは、パーティーで決まった役割を演じることにも、重なって見える。

 さらに言えば、前日まで多くのメディアで焦点化されていた米軍属による沖縄の女性殺害事件が、来訪を境に急速に扱いが小さくなったようにも思える。広島を巡る「カクテル・パーティー」の当たり障りのなさが、言語を絶する沖縄の憤りを見えにくくしたのではないか。

 オバマ氏がスピーチをした往時の爆心地一帯は、現在は平和記念公園として美しく整備されている。原爆ドームも敷地に芝生が植えられ、一帯は遊歩道と街路樹が整備されている。その整然とした美しさは、今回のセレモニーにはふさわしいものであったのかもしれない。

 だが他方で、どこか「カクテル・パーティー」に重なるものがないのかどうか。広島訪問を巡る言説を眺めてみると、そうした心地よさや当たり障りのなさが、何かを見えにくくしているようにも感じられる。

 69年熊本市生まれ。京都大大学院人間・環境学研究科博士課程修了。専攻はメディア史。著書に「『戦争体験』の戦後史」「『聖戦』の残像」「『戦跡』の戦後史」など。

(2016年6月14日朝刊掲載)

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