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連載・特集

緑地帯 被爆地で奏でる 能登原由美 <3>

 「広島学生音楽連盟」のことを追いかける中で、ジャーナリストの関千枝子さんに出会った。

 被爆時、広島県立広島第二高等女学校の2年生だった関さんは、建物疎開中の級友をほぼ全て、瞬時にして失っている。関さんはその日に限り学校を休んだため死を免れた。30年後、14歳で亡くなった少女たちの最期を記録に残そうと遺族を訪ね始め、8年かけて著書「広島第二県女二年西組」を書き上げた。

 尊厳を奪われた、いとけない死の様子。同時に、生き残った者の「負い目」も痛いほど伝わってくる。ピアノ少女だったという彼女の話には、広島の文化が原爆によって断ち切られたことを象徴するものがあった。

 広島の音楽界をけん引した一人に、ピアニスト長橋八重子がいる。夫は、広島の洋楽普及の礎「丁未(ていみ)音楽会」の指導者、長橋熊次郎。市中心部にあった長橋家は、まだ珍しかったグランドピアノを2台、レコード・キャビネットを幾つも抱え、熊次郎病死の後も広島の音楽文化の中心地だった。

 関さんは原爆投下の前日に、いつものように長橋家でピアノのレッスンを受けたそうだ。翌日、八重子は自宅で被爆死。長橋家の焼け跡には、ドラム缶のような黒い塊が幾つも転がっていたという。あのキャビネットいっぱいにあった大量のレコードだった。

 「原爆は広島の文化まで焼いてしまった」と関さん。戦後、峠三吉らが主催する音楽会にも顔を出したという彼女の話は、「再興」の重みを感じさせた。(「ヒロシマと音楽」委員会委員長=京都市)

(2016年6月14日朝刊掲載)

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