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緑地帯 被爆地で奏でる 能登原由美 <4>

 ジャーナリスト関千枝子さんによれば、原爆投下直後の秋、宇品(広島市南区)にあった凱旋(がいせん)館で宅孝二のピアノリサイタルがあったという。事実なら被爆後最初のプロによる音楽会と思われる。この音楽会文化、広島ではいつ頃から始まったのだろう。

 資料をみると、戦時中にも広島で音楽会は開かれていたようだ。そして、この音楽会普及を支えていたのが「広島音楽連盟」という団体。広島鉄道局に勤務する音楽好きの青年が中心となっていた。

 1946年初めに鉄道局に入局しこの団体にも参加した人から、終戦前後の広島での音楽会プログラムの束を見せてもらったことがある。最も古いものが、41年4月の新交響楽団(現NHK交響楽団)の公演で、広島音楽連盟の主催であった。

 場所は新天地劇場。80人編成のオーケストラが上がるだけの舞台があったのだろうか。原爆で焼失したためもはや分からない。シューベルトの「未完成交響曲」、ベートーベンの「運命」など定番が並ぶ。昼夜2回、どれほどの人が詰め掛けたことだろう。

 広島音楽連盟による音楽会は、戦後まもなく活動を再開する。現存するプログラムでいえば、46年3月に行われた「斎藤秀雄ピアノ三重奏団」の演奏会。場所は宇品にあった鉄道局講堂。

 音楽会はその後も頻繁に行われている。いずれも、市周辺部で破壊を免れた建物を利用した。ハード面よりソフト面での復興が先行していたともいえる。文化を希求する人々の心の強さを思う。(「ヒロシマと音楽」委員会委員長=京都市)

(2016年6月15日朝刊掲載)

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