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連載・特集

緑地帯 被爆地で奏でる 能登原由美 <5>

 「広島は戦前から音楽が盛んな街だった」。広島の音楽史をたどる中、人々の口からも文献の上でもこの言葉によく出くわした。実際のところどの程度まで真実なのか、他県と統計的に比較したわけではないので分からない。

 だがそうだとすれば、そこに音楽教育者の果たした役割が少なからずあったことは間違いないだろう。残念ながら、戦前から活躍する人の多くは既に鬼籍に入っておられるが、折に触れてご遺族に話を聞かせてもらっている。

 戦後の広島の音楽教育界で活躍する人々を育て上げた一人に、渡辺弥蔵がいる。明治末期に広島師範学校に赴任し、彼の下で学んだ多くの若者が音楽教師として巣立っていった。その渡辺がとりわけ力を入れたのが唱歌教育だ。

 広島でラジオ放送が始まったのは、広島中央放送局が開局した1928(昭和3)年。ラジオ欄を調べると、当初は広島で独自に制作する番組も多かった。その中で音楽番組といえば、地元の幼稚園児や小中学生が出演する唱歌番組。時には県下大音楽会が開かれ実況中継もされた。渡辺はその采配を振るっていたようだ。

 渡辺は「広島フィルハルモニー会」の創設者であり指導者でもあった。大正半ばに生まれたこの団体は、広島では最初期の合唱団の一つである。20年以上続いたが、戦況の悪化とともに惜しくも解散した。一方、升田徳一が指導した「ワコルド合唱団」は戦後いち早く活動を再開した。戦前から続く合唱文化は原爆でも絶やされることなく、今に至っている。(「ヒロシマと音楽」委員会委員長=京都市)

(2016年6月16日朝刊掲載)

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