×

連載・特集

緑地帯 被爆地で奏でる 能登原由美 <8>

 復興期広島の音楽の場として知られる音楽喫茶「ムシカ」。被爆翌年の夏、猿猴橋町で開店した。その年の大みそかに行った「第九」のレコードコンサートでは、店内に入れきれなかった多くの人が、雪の舞う戸外で漏れ聞こえる音楽に震え、涙を流したという。

 1947(昭和22)年になると解説付きのレコード鑑賞会も催し、文化人が集う場所としても知られた。そのため、ムシカでコーヒーを飲むのはステータスの象徴にもなっていたようだ。戦後10年が過ぎる頃には「うたごえ喫茶」が流行し、ムシカも人々の歌声で満たされた。

 興味深いのは、ムシカのコーヒーの値段について人々の記憶がさまざまだったこと。理由の一つは、戦後発生した物価の大幅な変動により価格が頻繁に変わっていたことがある。だがもう一つは、被爆後に人々が置かれた事情が大きく影響しているらしい。

 被爆後の数年間、深刻な食糧危機が広島を襲った。線路脇に生えていることから「鉄道草」と呼ばれた草を団子に入れて食べたとも言われる。そうした中、ムシカは「庶民が行けるような場所じゃなかった」という声も。日々の食糧さえ欠いていた人々にとっては、ムシカのコーヒーは手の届かない高価なものだったのだろう。

 音楽活動を通じて復興の様子を伝えるムシカ。だが、そのコーヒーを巡る記憶の違いは、人々の復興の歩みが決して一様ではなかったことを教えてくれる。被爆後の広島の音楽の歩みをみる上での自省として、胸に刻もうと思う。(「ヒロシマと音楽」委員会委員長=京都市)=おわり

(2016年6月21日朝刊掲載)

年別アーカイブ