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社説・コラム

『今を読む』 関西大准教授・松元雅和 

オバマ演説と正戦論 「原爆は不正」底流にある

 米国の現職大統領が初めて広島を訪問した。実現に当たっては、日本側の並々ならぬ努力や働きかけがあったのだろう。また、7年前に核廃絶を唱えてノーベル平和賞を受賞したオバマ大統領の側の強い意向もあったのだろう。

 大統領の訪問については、賛否の声があった。一方で、かつての仇敵(きゅうてき)が戦争の惨禍を象徴する土地で、強固な同盟、友好関係を示すものであったと肯定的に評価する声がある。他方で、いまだ戦争被害の記憶が癒えない人々が暮らす土地で、謝罪を聞けなかったのは残念だという声がある。さらには、今回の訪問が日本の加害者としての側面を曖昧にしてしまうものだという批判の声もあろう。

 もちろん、こうした声の一つ一つに向き合うことは必要である。しかし、いずれにしても今回の訪問の意味をパフォーマティブな次元に限定してしまうなら、その歴史的意義を過小評価することになろう。民主政治の根幹は言葉であり、それは時に現実世界をよい意味でも悪い意味でも一変させ得る。そこで本小論では、オバマ氏が発したメッセージを、まずは政治的な勘繰り抜きに捉え直してみたい。

 オバマ演説の論点の一つは戦争における目的と手段の相克である。正義の実現や平和の希求は同時に、殺人を正当化する免罪符となってしまう。この矛盾は、科学技術の発展が人間社会を豊かにする道具になると同時に、それを破滅させる道具にもなるという点に明白に表れている。その極点が、人類史上で2度、戦争の手段として広島と長崎に落とされた原爆だった。

 こうした悲劇の状況を克服するために、オバマ氏が頼みにするのは、日米関係を含む国際的連帯を強固にすること、外交のような非軍事的な紛争解決手段を重視すること、戦争についての人々の道徳的態度を変革することである。総じて、今日の世界で暴力的手段を一掃することは現実的ではないものの、その現実を理想へ変えていくこともできると表明している。

 ただ、「核兵器なき世界」への希望を語りながらも、核廃絶に向けた具体的な道筋を示すには至らなかった。

 欧米には、戦争や国際紛争の存在をリアルに認識しつつも、その目的と手段に一定の道徳的制約をかけていこうとする考え方がある。「正戦論」と呼ばれる系譜だ。

 古代ローマ末期におけるキリスト教の教義解釈から生まれ、後に国連憲章やジュネーブ諸条約など、もろもろの国際法規のなかに実定法化されていった。オバマ演説の底流にあるのも、こうした考え方であると言ってよい。

 正戦論がその長い歴史の中で培ってきた戦闘行為に関する一つの原理原則がある。それは無辜(むこ)の市民を意図して殺害してはならないというものだ。「非戦闘員保護原則」あるいは「区別原則」という。

 たとえ、その行為がどれほど望ましい結果をもたらそうとも、禁止された行為はあくまでも禁止される。専門的な用語を使えば、この原理原則は、結果の善しあしに関する功利計算の適用範囲を限定付けるのである。

 それが戦争の終結を早めたとか、結果的に日米でより多くの人命を救ったとか、原爆投下の決定の是非に関しては、今でも侃々諤々(かんかんがくがく)の議論が存在する。しかし、こうした議論が、広島や長崎の市民にとって何の意味があるだろう。数十万の無辜の命を奪い、あるいはその日常生活を不可逆的に損なった原爆投下は、正戦論の観点からでさえ明白に不正である。公式の謝罪がなかったとしても、その点に疑問の余地はない。

 演説後に実現した対面の中で、オバマ大統領が被爆者とどのような言葉を交わしたか、正確には分からない。しかし、多分そこには米国国民と日本国民、あるいは政治指導者と市民の立場の違いを超えた、人間同士の交流があったのではないだろうか。

 演説中、大統領は「亡くなった方々は、私たちと同じ人間です」と述べた。筆者はこのメッセージに、核兵器の恐怖から自由な世界に向けた、万人共通の議論の出発点を読み取りたいと思う。

 78年東京都大田区生まれ。英国ヨーク大大学院政治学研究科修士課程、慶応大大学院法学研究科博士課程修了。島根大准教授を経て13年から現職。博士(法学)。専門は政治哲学、政治理論。著書「平和主義とは何か」(中公新書)で石橋湛山賞。

(2016年6月21日朝刊掲載)

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