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社説・コラム

鈴木首相と原爆 ― 事実関係を明確にする

ハワイ大学マノア校マツナガ平和研究所ブライアン・ハレット教授

[この記事はパシフィック・フォーラムCSIS PacNet ニュースレター45R 2016年5月24日に初めて掲載された。]

ヴェイジー海軍少将の最近の論文「トルーマン大統領と原爆 - 事実関係を明確にする」(Pac Net 45 2016年5月18日)は、まさにアメリカの視点から「事実関係を明確にする」ものである。しかし、おそらく、この事実関係をさらに具体化し、バランスをとるために、さらに三点述べたい。

第一に、トルーマン大統領はいかなる直接的な、または重要な意図をもって、原爆の投下を「命令」していなければ、「決定」もしていなかった。第二に、トルーマンと彼の助言者たちは「戦争を終結させ、生命を救う」ために、決定したわけではなかった。鈴木首相と彼の助言者たちがその決定を行ったのである。そして、第三に、日本の降伏に関して議論するのであれば、戦争を不必要に長引かせることとなったルーズベルトによる無条件降伏の要求の致命的な影響を考慮する必要がある。

残念なことに、この最後の点については、紙面の都合上、ここで述べることはできない。しかし、一寸考えただけでも、無条件降伏を要求することは、避けようのない害悪をもたらすことがわかるだろう。 または、無条件降伏の要求がもたらす意味のない、道義的、戦略的そして政治的影響を知りたければ、エドマンド・バークが1775年に行ったアメリカの独立戦争を擁護する議論を読みなおしてみればよい。

マンハッタン工兵管区の司令官レスリー・グローヴス少将は少将自身が原爆を製造し投下する特別任務を与えられていたと常に明確に自覚していた。ルーズベルト大統領は1939年に官僚機構をつくり、そして、資金を得た後、その機構はその特別任務が完了するまで、つまり原爆が製造され、投下されるまで、動き続けた。大統領に就任した後、トルーマンはもちろん(原爆製造の)進展の情報を与えられ続けたが、大統領自ら決定を行うことはもはや期待されていなかったし、また必要ともされていなかった。

大統領として、トルーマンはこの官僚機構に介入し、中止することもできただろう。しかし、仮にトルーマンがそうしていたとしても、理由を十分に説明する必要があっただろう。しかし、1945年には、都市を破壊しない理由を考える必要はなかった。ドイツでは、ヴロツワフを除いて人口10万人以上のすべての62都市がすでに破壊されていた。そして、日本では64の都市が破壊されていた。さらに、この甚大な破壊の他に、ベルギー、イギリス、フランス、オランダ、そして他のさまざまな都市に空襲が行われていた。

トルーマンは「責任は私がとる!」と表現したように、常に原爆投下について責任をとってきた。しかし、グローヴス少将が述べたように、トルーマンの役割は原爆投下の「決定」を行うことでなければ、「命令を下す」ことでもなかった。彼の役割はそこから離れて、官僚機構に従い、求められた役割を果たすことであった。

交戦国の中では独特なのは、大日本帝国は戦争の途中で政権が何度も変わった唯一の国家であったことである。 東条内閣は1941年から1944年、小磯内閣は1944年から1945年、そして鈴木内閣は1945年4月7日から1945年8月14日までと政権が変わっている。フランス、イタリア、ブルガリア、ルーマニア、ハンガリー、フィンランド、ドイツなどの他の国家はすべて、戦争中に政権が変わったが、その交替は新しい政府機関が 降伏した数日前のことであった。サダム・フセインを除き、戦争に負けつつある政府は最後の瞬間までしがみつき、そして崩壊するのである。新しい政府がその後に組織され、以前の政府機関に代わり、降伏を取り扱う。しかし、日本は独特であった。東条、小磯、鈴木内閣の盛衰を見ることで、日本の運命の軌跡をたどることができる。

鈴木内閣が政権に就いたのは米国が沖縄攻撃を行った6日後のことであった。鈴木内閣となったのは、まず、小磯内閣が日本を防衛することに失敗していたからであり、次に、鈴木内閣には政策があったからである。その政策はあまり良いものではなかったが、しかしそれは一つの政策であり、二本の柱があった。軍事上の柱は九州の海岸線を強化するというものであり、これは、予想されていた敵の侵攻に対して、決定的な打撃を与えようとしたのである。外交上の柱はソビエト連邦と日本が締結した平和友好条約の延長を交渉することであった。この外交上の成功を得た後で、鈴木はスターリンに対して、降伏に関して交渉するため、米国との仲介を依頼するつもりであった。

日本は1945年には九州の海岸線を要塞化し、米国の攻撃に反撃するための物質的な資源は持っていなかった。また、スターリンは平和友好条約を延長する意思がなかったし、日本の降伏交渉の仲介を行う意思もなかった。さらに、鈴木首相と彼の閣僚全員がそのことを知っていた。にもかかわらず、決定的で重要なことは、この希望のない、そして全く現実的でもない二本柱政策は、日本政府の一つの政策となったのであり、こうして鈴木内閣は成立したのである。

この希望のない二本柱の政策を実行可能性があり、魅力的な政策としてしまったのは、ルーズベルトの求める無条件降伏の要求に従うという選択肢が、あまりにも不名誉であり、国家への反逆行為に値するからであった。歴史上のすべての政府高官がそうであるように、鈴木とその閣僚は大日本帝国憲法を守るという宣誓を行っていた。無条件降伏に従うことは、憲法を廃止することと同義であり、就任宣誓を破ることとなるのであった。

米国の視点から見ると、ヴェイジー海軍少将によって再び語られたことの中で最も興味深いことは、原爆を投下するかどうかについて、米国の政権がどれだけの時間を費やし、真剣に議論したかである。すでに述べたが、1945年の文脈の中で、都市が日々、一つまた一つ破壊されていく中で、これから、いくつかの都市が壊滅されるべきではないと考えることは誰にもできなかった。それが化学爆薬であるのか、核であるのか、使用される爆発物の物理的要素で何か違いがあっただろうか?

しかし、日本の視点から見ると、最も興味深いのは1945年8月6日から14日までの時系列である。

1945年8月6日、広島に原爆が投下される
1945年8月8日、スターリンがヤルタで約束した通り、ソビエトが日本に対
          して宣戦布告
1945年8月9日、長崎に原爆が投下される
1945年8月10日、最初の御前会議
1945年8月11日、最初の日本の降伏。原案が十分でないとして、拒否され
           た
1945年8月14日、二度目の日本の降伏、これは受理された。鈴木内閣が終
           焉を迎える

この時系列で注目すべき点は、鈴木内閣が8月10日に降伏することに基本的に同意し、鈴木内閣が終焉を迎えた日である8月14日に降伏したことである。しかし、明らかなことは、鈴木内閣の(降伏への)同意と内閣の終焉は二回の原爆投下によるものではなかった。

すでに灰じんに帰していた64都市に加えて、また二つの都市が破壊されたことは、鈴木内閣崩壊の脅威とはならなかった。鈴木内閣はすべての都市の破壊に関して対処するゆるぎない政策をすでに持っていたからである。その政策はとても良い政策とは言えなかったが、しかし、機能した。実際、ウインストン・チャーチルが1941年から1942年に同様の政策を最初に取り入れている。それは、爆撃を受けた後に、傷ついた人の看病をし、死亡した人を埋葬し、できる限りがれきを片付け、そして生活を続けるというものであった。列車は広島の原爆投下から二日後に運行していた。

この政策はイギリスで機能しただけでなく、1945年の3月以来、64の日本の都市でも、うまく活用されていた。そのため、鈴木内閣は二つの都市の破壊をほとんど憂慮しなかった。北朝鮮と北ベトナムの人々が証言するように、想像も出来ない量の爆弾の投下があっても、降伏の理由にはならないし、降伏を促すことにもならない。むしろ、全く反対の効果を生むのである。

それと無残なまでに対比すべきは、ソ連の太平洋戦争への参戦である。ソ連参戦は鈴木内閣崩壊の脅威となっただけでなく、その崩壊を確実にした。二本の柱のうちの外交的な柱は消滅した。また、外交的柱がなくなったことで、軍事的な柱の価値もなくなってしまった。というのは、九州での軍事的な勝利を活かすための外交的な道は閉ざされたからである。ここで、鈴木内閣は政策を失い、また、希望さえ失ったのであった。そして、鈴木内閣は終焉を迎えた。

8月8日のソビエトの参戦という文脈の中で、昭和天皇からの依頼を受けて、鈴木内閣は8月9日のまる一日を費やし、無条件降伏を求めるポツダム宣言について再び議論を行った。正午過ぎに内閣は長崎の原爆投下を知らされた。この行き詰まった議論が深夜を過ぎて、最初の御前会議へとつながった。そこで、天皇はポツダム宣言を受け入れる自らの希望を示したのである。これが8月11日の日本による最初の降伏の提案となった。しかしその原案は米国にとって十分でなかったために拒否された。 第二回目の御前会議が開催され、より十分な提案がなされ、8月14日に米国により受諾された。こうして、鈴木内閣の終わりとともに、太平洋戦争も終結した。

8月9日から14日の議論の中で最も興味深い点は、昭和天皇を除き、全ての参加者が大日本帝国憲法を守ることを就任時に宣誓したことで 道義的に拘束されていたことである。天皇を除いては、参加者の誰もが自らの就任宣誓を破ることなく、無条件降伏を受け入れることはできなかったのである。天皇は憲法の上位に位置していたため、憲法を守るという宣言を行ったことはなかった。無条件降伏を行うという天皇の決定は不名誉でもなければ、国家への反逆行為でもなかった。

オバマ大統領は広島訪問の際、原爆投下に関して謝罪することはないであろう。今はその機が熟していない。しかし、将来の大統領は行うだろう。その時が訪れたならば、その謝罪が誠実で、真に意味のあるものとなるためには、この将来の大統領は広島と長崎の被爆者に原爆投下について謝罪するだけでは十分とは言えないだろう。むしろ、その謝罪は第二次世界大戦中で爆撃を受けた他のドイツや日本の都市の市民、朝鮮戦争時に爆撃を受けた北朝鮮の市民、そしてベトナム戦争時に爆撃を受けた北ベトナムの市民をも含めたものとなるだろう。

将来の謝罪の動機となる、本当の意味での重要な道義的、軍事的問題 は、それが化学爆薬か核かという、使用された爆発物の物理的要素ではなく、なんら軍事的利点を生み出すことなく都市すべてが壊滅された点である。実際に、ロンドン、ロッテルダム、ドレスデンそして東京の市民は第二次世界大戦中に、広島と長崎の市民と同じ規模の被害を受けている。 それゆえ、謝罪の重要な理由は、重要な軍事的利点や利益が無いにもかかわらずこれらすべての市民が被害を受けたという事実である。この悲しい結論は、第二次世界大戦の米国戦略爆撃調査団の報告からも読み取ることができる。また、北朝鮮および北ベトナムの都市の市民の証言からも同様の結論が得られている。米国空軍でさえ、この種の軍事的に効果のない破壊を今では主張していない。

ブライアン・ハレット教授
ハレット教授はハワイ大学マノア校マツナガ平和研究所で教鞭をとっている。宣戦を布告する権力に関する二冊の著作をあり、仮題『戦争に関して ある対応』として、クラウゼヴィッツの戦争の相反する構想に関する書物を現在著している。

[日本語訳監修・西田竜也広島市立大准教授]

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