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連載・特集

福山市制100周年 あの決断は今 バラ 戦後復興と希望の象徴 

「100万本」後 問われる底力

 福山市が設けた初の「ばらの日」の5月21日。公園や街路、地域や家庭、企業で栽培を広げる「100万本のばらのまちづくり」を達成した高揚感に包まれた。緑町公園の花壇ローズヒルで、市制100周年記念の「ローズマインドふくやま」の植樹式があった。

 「戦後復興の象徴でした」。あいさつに立った元副市長で福山明るいまちづくり協議会の開原算彦会長(69)はばらのまちづくりの原点に触れ、引き継がれる合言葉を口にした。「花は美しい、それを愛し育む人の心はなお美しい」。60年続く原動力を説き明かした。

町内会など栽培

 1945年8月の福山空襲で、多数の市民が犠牲になり、市街地約8割を焼失した。

 10年余りが過ぎ、がれきの積まれた御門町南公園(現ばら公園)に地元住民が「荒れた街に潤いを」と、バラの苗木を植えた。当時の徳永豊市長は市議会に掛け合い、苗木の予算を確保した。官民による歩みが始まった。

 ハード面の復興が一段落した時期、「少しゆとりが出て、精神的な豊かさを求めた」と開原さん。バラは万人に受ける。城下町のシンボル、誇りだった国宝・福山城の天守閣が焼け、心のよりどころが要ったと推察する。

 町内会を中心とした熱心なバラ栽培は、全国美しい町づくり賞最優秀賞の受賞に結びつく。現在の福山ばら祭も幕を開けた。合併や企業進出によって変貌し続ける街で、住民をつなげる役割を果たしていく。

関連の商品多数

 バラは85年に市花となる。牧本幹男市長の下、市政の表舞台に躍り出た。重工業都市は、ともすれば重い印象が突出する。「文化面から都市のイメージアップ。さらに観光を押し出す大道具、小道具としてもバラははまった」と、ばらオーナー会最高顧問の浦隅俊明さん(71)はみる。

 三好章市長、続く羽田皓市長は、ばらのまちづくりを重要施策とする。21世紀になり誕生した緑町公園の花壇は、市が整備し、市民が会費を出して苗木のオーナーとなる新しい仕組みで運用される。

 3代の市長を知る浦隅さんは「トップが力を入れ、市民も踏み込んだ。他都市が及ばない面としての広がりを生んだ」と自負する。バラ関連の商品が多く生まれ、都市ブランド発信の柱にもなった。

 1日の100周年記念式典で発表された「未来宣言」は思いやり、優しさ、助け合いの心を表す「ローズマインド」を根付かせるとうたった。目に見えづらいだけにハードルは高い。「100万本」後をつなぐ底力が問われている。(高橋清子)

<主な出来事>
 1945年、福山空襲で市街地の8割が焼失▽50年代半ば、御門町南公園(現在のばら公園)にバラの苗木を植える▽56年、福山ばら会の主催で第1回バラ展示会▽57年、市主催の第1回福山バラ展覧会、ばら公園の整備着工▽68年、全国美しい町づくり賞最優秀賞を受賞、福山ばら祭始まる▽85年、バラを市花に制定▽2001年、緑町公園に花壇が完成▽06年、世界バラ会議でばら公園が優秀ローズガーデン賞受賞▽15年、ばらのまち条例の制定▽16年、「100万本のばらのまちづくり」達成、初のばらの日(5月21日)に539組が同時にバラの花束を渡すギネス世界記録を樹立

(2016年7月6日朝刊掲載)

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