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看護の島 証言掘り起こす 元教諭が冊子 広島・金輪島 負傷者ら取材

 平和学習や広島への修学旅行に長年取り組んできた元高校教諭の竹内良男さん(67)=東京都立川市=が、原爆投下後に負傷者として金輪島(広島市南区)に運び込まれたり、島で家族が息を引き取ったりした10人の証言をまとめた。タイトルは「『忘れられた』金輪島―小さな島の哀切な物語」。島と原爆との関わりを広く知ってもらおうと、約3年がかりで編集した。

 証言者の一人の寺前妙子さん(85)=安佐南区=は1945年8月6日、進徳高等女学校(現進徳女子高)の3年生だった。爆心地から540メートルの広島中央電話局で被爆、左目を失った。避難の末、金輪島に運ばれた。顔には包帯が巻かれていたが、学徒たちが「お母さん、お父さん」と言いながら亡くなっていくのが分かった。わが子を捜し、ようやく島にたどり着いても、「今しがた息を引き取られました」と説明される親もいた、と振り返る。

 田辺芳郎さん(79)=西区=は、被爆した父が金輪島に運ばれ、8月8日に亡くなった。原爆犠牲者を弔う慰霊碑を島に建てようと兄と尽力。98年に完成させた。遺族の高齢化を懸念し、「慰霊碑を訪れ、今後とも父との心の触れ合いを大切にしたい」と願う。

 竹内さんは、寺前さんと出会い、被爆後に約500人が運ばれ、多くが亡くなったという金輪島に関心を持った。2013年に初めて訪れて以来、島の慰霊祭に参加し、陸軍施設跡を巡るフィールドワークも開いてきた。

 証言集は、学徒動員で島にいて被爆した女性や、自らも被爆しながら負傷者を手当てした軍属らに手記を寄せてもらったり、聞き取りをしたりして仕上げた。「過酷な状況の中、必死に看護に当たった人たちがいた。忘れてはいけない事実が島には埋もれている」と話している。

 A5判、96ページで、300部印刷。金輪島の歴史や戦跡についてまとめたマップ(A3判、裏表、カラー)も付けた。原爆資料館(中区)などに寄贈した。(増田咲子)

(2016年7月18日朝刊掲載)

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