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社説・コラム

被爆地発信に使命感 初の8・6ホーム試合 サンフレ・ミキッチ選手 紛争経験のクロアチア出身

「犠牲者尊ぶ日に」

 J1サンフレッチェ広島は、Jリーグ発足から24年目の今年、初めて8月6日にホームゲームを戦う。紛争の激しかったクロアチア出身のミキッチ選手(36)は2009年に広島入りし、外国人選手ではクラブ最長の在籍8年目。「広島に来て、暮らして、より平和都市のイメージが強くなった」と、ヒロシマへの思いを語った。(中橋一誠)

 どこの国も同じだと思うけど、学生時代、歴史の勉強で、ヒロシマという街が戦争で原爆を投下された都市であり、戦後どう復興していったかを学んだ。

 広島に住むようになり、特に平和記念公園の辺りを散歩すると、やっぱり広島は平和都市だと感じる。僕だけじゃなく、訪れた全ての友達も「穏やかな都市で居心地がいい」と言う。僕や家族がなぜ広島にこだわって長くいたいと思うのか理解できると言われるよ。

友人や家族案内

 1990年代にクロアチアであった紛争は、子どもだったこともあり、それほどネガティブな思いがあるわけじゃない。ただ警報で逃げないといけないことは何度かあった。当時は授業がなくなってサッカーができるくらいに思っていたけど、祖父母ら2世代年配の人は徴兵され戦争に行かなければならない人もいた。僕の住んでいたザグレブから100~200キロ離れた所では、戦争真っただ中の地域もあったので、間接的には戦争を感じていた。

 90年代の紛争は、今の自分の生活には全くリアリティーがない。いま日本と韓国が戦争するかといえば、そんな感覚がないのと一緒。サッカーの試合となれば、対セルビアが特別なのは確かだけど、どの試合も勝ちたいのは、サッカー選手として当然で、それ以外にはないんだ。

 広島に長く住み、平和記念公園にも何回も行っているから、ヒロシマの歴史や折り鶴に込められる意味は理解している。友人が来た時、率先して折り鶴の意味を教えているし、原爆資料館にも案内している。

 僕が広島にいることで、ヒロシマを世界に発信できていると思う。僕もだが、特に(モデルをしている)妻のインスタグラム(写真共有アプリ)による発信力は、とんでもない影響力がある。一度も会ったことがないクロアチアの人が広島へ観光に訪れたりとかね。

 原爆資料館は10回ぐらい訪れた。訪問客が来るたびに連れて行くし、自分でも訪れる。父が来た時は自分が説明して案内したよ。

 資料館を見て、もちろんいい気持ちはしなかった。戦争や、原爆投下後のただれた皮膚の写真、特に子どもが被害に遭っているのを目の当たりにすると受け入れ難い感情になる。なんで、こんなことが起きたのかとしか言いようがない。

平和訴える好機

 でも思うんだ。核兵器を保有している国々が平和をテーマに議論をするなら、まずはあの現状を見るべきだ。だから友人が来れば、最低限だけど、核がないことが平和に近づくという意味を分かってもらいたくてあえて見せているんだ。

 原爆が投下された8月6日に初めて広島でJリーグのゲームがある。平和を訴える本当にいいチャンスだと思う。できるならその後、選手全員で灯籠を流してもいいんじゃないかな。8月6日は間違いなく広島の人には史上最悪の日。でも逆に今、自分にとっては8月6日という日を忘れないで全国から集まり、亡くなった方々を尊ぶ思いを込めて灯籠を流しているのはとても美しいシーンだよ。

 広島にとって最悪な日だけど、すてきな日だなという感覚もある。平和について考え、平和のありがたさを感じながら、亡くなった方々を尊ぶことでもあるし、その思いを込めた灯籠が川を流れるのは美しいんだ。

クロアチア紛争
 多民族・多宗教の社会主義連邦共和国ユーゴスラビアは、ソ連・東欧の崩壊を受け、1991年のスロベニア、クロアチア独立宣言を機に各地で紛争が相次ぎ、計7カ国に分裂した。その過程で、クロアチアでは91~95年、分離独立と、クロアチア人とセルビア人との民族対立を巡り紛争が起きた。

(2016年7月18日朝刊掲載)

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