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連載・特集

オバマ米大統領を迎えた夏 52分の重み <1> 演説の地

 あの原爆を落とした米国から初めて現職の大統領を受け入れた広島。5月27日、オバマ大統領が立った平和記念公園(広島市中区)には1945年8月6日、惨状が広がっていた。被爆者たちは71年、苦難の道を歩まされた。オバマ氏が公園に滞在したのはわずか52分。されど52分である。オバマ氏が演説で触れた広島の内実を掘り起こし、向き合わねばならない非人道的な被害を見る。

愛する家族 町ごと消滅 元住民「むごさ知って」

 オバマ氏が「ヒロシマ演説」を世界へ発した平和記念公園の原爆慰霊碑前の階段下。被爆者の向井静枝さん(87)=西区=は今月半ば、その場に立つと懐かしげにこぼした。「慰霊碑の裏の辺りには劇場があってね。通った幼稚園もこの近く。そばのお寺の境内が友達との遊び場で」。そして、悲しい別れも。「ここで亡くなった母との楽しかった思い出を今も夢に見ます」

 階段下付近はかつての「材木町46番地」。向井さんたち家族が木造2階の家屋で暮らした。広島を代表する繁華街だった町の一角に引っ越してきたのは、45年7月の終わりだった。

 生家は、材木町からやや南へ下った水主町(現中区加古町)の、ようかん製造店「平甘(へいかん)堂」。夫を早くに亡くした母小原サダ子さんが子ども7人を育てながら、親族と切り盛りしていた。ただ日米開戦後程なく、物資不足で休業。建物疎開の対象となり、生活圏だった材木町の家を知人に借り、移り住んだ。

一家支えた母失う

 8月6日早朝、進徳高等女学校(現進徳女子高)4年だった向井さんは、市郊外の叔父宅へ出掛けた。やはり町内に自宅があった別の叔父が召集先の東京から帰省し、母親から「きょうだいで集まりたいから呼んできて」と頼まれたためだ。「行ってくるよ」。それが別れとなった。

 爆心地から約300メートル。9日ごろに戻ると、自宅は跡形もなく、ようかん作りに使うアルミ容器が茶色く焼け焦げていた。「母の金歯を見つけ、そばの白い骨をつまむと、焼けきっていてパラパラとこぼれ落ちました」。47歳だった。新婚で同居していた向井さんの姉の佐々木八重子さん=当時(22)=と夫の広三さん=同(27)、大叔母の小原ミツさん=同(75)=も亡くした。

 「苦労して一家を支えていた母たちを奪われ、大変な寂しさと怒りを感じました」。戦後結婚した向井さんは1男1女を育て上げ、今はひ孫もいる。「子や孫たちに同じ思いを絶対させたくない。オバマさんが演説した場所だけをとってみても、これだけ多くの家族が引き裂かれたんです」

痛み 十分伝わらず

 71年前にもここで同じように貴重な時間があった―。オバマ氏は演説で被爆前の人の営みに触れ、核兵器をなくしていく「道徳的な目覚め」を訴えた。

 その眼前に広がっていた公園の「中央参道」西側の芝生内には、帰省していた向井さんの叔父の自宅があった。妻ともども遺骨は見つからなかった。演説を見守った日米要人の席が置かれた辺りは大家の男性宅があり、本人を含む家族3人が原爆死。移住した米国ハワイから38年に戻り、商社を経営していたという。参道の位置に軒を連ねていた郵便局や時計店も消えた。

 慰霊碑を前に、目を閉じて犠牲者を悼んだオバマ氏に、向井さんは「少しは母の心が安らいだでしょうが、痛みが十分伝わったとも言えんでしょう」。証言を頼まれても断るときがあるが、今回、中国新聞の求めに応じて自宅跡に赴いた。「オバマさんの足元で起こった事実を、町ごと家族を消し去った原爆のむごさを知ってもらうお役に少しでも立てば」。そう考えたからだ。(水川恭輔)

(2016年7月20日朝刊掲載)

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