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連載・特集

オバマ米大統領を迎えた夏 52分の重み <2> サダコの折り鶴

問い掛ける 原爆の恐怖 少女らの未来 病が奪う

 1955年8月に撮った1枚の記念写真を、大本喜美枝さん(86)=広島市安佐南区=は今も大切に保管している。当時2歳だった長男の裕之さん(63)=福山市=と共に、2カ月ほど後に白血病で亡くなる12歳の佐々木禎子さんが写る。「禎子ちゃんと3人で、時がたつのも忘れて過ごしたこともあったのよ」。歌い、笑い、面倒見の良い、ごく普通の少女だった。

周りに常に笑い声

 大本さん親子は「原爆の子の像」のモデルとなった禎子さんと、広島赤十字病院(現中区)の小児科病棟で出会った。禎子さんは2歳の時、爆心地から約1・7キロの楠木町(現西区)の自宅で被爆。55年2月に白血病と診断され、入院していた。ポリオを患った裕之さんが5月に入院すると、向かいの病室になった。

 「禎子ちゃんが浴衣姿で病室に入ってきて『先生は、私の病気はきれいな着物を着て、おいしい物を食べていれば治ると言うとるんよ』と得意げに話してねえ」。喜美枝さんは、出会った頃の元気な姿を懐かしむ。髪を洗ってあげたり、スイカを差し入れたりすると喜ばれたという。

 禎子さんはよく裕之さんと遊んだ。3人で外の芝生に座り込み、禎子さんが、実家が理髪店なのにちなみ童謡「あわて床屋」を歌ってくれたことも。禎子さんと同室だった大倉記代さん(2008年に67歳で死去)は「子どもたちは相手をしてくれる禎子ちゃんが好きでその周りにはいつも笑い声が聞こえていました」と、05年の自著「想い出のサダコ」に記す。

 一時、全身まひになった裕之さんは8月中旬に退院できたが、禎子さんは秋の深まりとともに衰弱。10月25日、亜急性骨髄性白血病のため亡くなった。小児甲状腺がんも併発していた。

小児 発生率数十倍

 外務省の委託研究に当たった鎌田七男広島大名誉教授らの報告書によると、被爆者の白血病は48年ごろから増加傾向が指摘され、55年ごろまでピークに。発生率は一般人の4~5倍、小児に限れば数十倍に上る。

 1人の少女の死は、回復を願って鶴を折る行為により国内外に広く知られるようになった。「病室で小さな鶴を熱心に折り、壁につるしていたのもよく覚えています」と喜美枝さん。5月27日に原爆資料館(中区)を訪れたオバマ米大統領は折り鶴を見学し、自作した4羽を広島に残した。

 今月半ば、大本さん親子が原爆の子の像と資料館を訪れた。初めて資料館を訪れた喜美枝さんは、禎子さんの展示の前で「原爆がなければ…。助かってほしかった」と漏らし、来館者の署名簿に「今日は禎子ちゃんに会えて嬉しかったです」と書き残した。そんな母親に、裕之さんは「また思い出したら何でも聞かせて」と声を掛けた。

 禎子さんと自らの闘病生活を、物心ついた頃から聞かされた裕之さんは「命を守る仕事に」と、医師を志した。産婦人科医として多くのお産に立ち会い、命の重みを痛感してきた。「被爆で未来を奪われた子どもはたくさんいたはず。折り鶴を通じて、原爆の恐怖と非人道性こそ再認識されてほしい」と願っている。(水川恭輔)

(2016年7月21日朝刊掲載)

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