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連載・特集

オバマ米大統領を迎えた夏 52分の重み <3> 被爆者の代表

母妹悼み反核の先頭に 進まぬ軍縮 もどかしさ

 原爆の爆風に押しつぶされたわが家。16歳の少年は、隙間のほんの1メートル先に母親を見た。なのに助け出せない。炎が2人に迫り来る。「お母さん、ごめんね。ぼくも後で逝くからね」。叫んで、逃げた。

 「母は猛火の中で何を思ったのだろうか。今でも考えてしまう」。日本被団協代表委員の岩佐幹三さん(87)=千葉県船橋市=はそう言って胸に手を当てた。「ここに傷を刻み、自分と闘いながら生きてきたんです」

変わり果てた姿に

 原爆が落とされる3カ月前に父親を病気で亡くした。母清子さん=当時(45)=と県立広島第一高等女学校(現皆実高)1年で「よっちゃん」と呼んでかわいがっていた妹の好子さん=同(12)=と3人で、広島市富士見町(現中区)に暮らしていた。修道中の専攻科生。軍事工場に動員される日々にも疑問は抱かなかった。「浅はかにも、戦場で死にたいと願ってさえいた。そうすれば国を、家族を守れると信じていた」

 あの朝は工場が休みで自宅にいた。爆心地から1・2キロ。建物疎開作業に動員された妹を送り出した後、庭先で爆風を受け、地面にたたき付けられた。

 奇跡的にかすり傷で済んだが、家の下敷きになった母にどうしても手が届かない。「早う逃げんさい」。母はそう言い、般若心経を唱え始めた。数日後、焼け跡から掘り出した亡きがらは「コールタールを塗って焼いたマネキン人形みたいだった」。土橋町(現中区)付近にいたはずの妹は見つからず、人間らしい死に方さえ許さない原爆を憎んだ。

 戦後は、やはり原爆で夫を亡くした叔母に支えられた。大学に進み、英国思想史の研究者に。金沢大の教壇に立っていた1954年、米国のビキニ水爆実験で日本のマグロ漁船「第五福竜丸」が被災すると、沸き起こった反核運動に関わり始めた。「原動力は戦争への憎しみだった」。60年、石川県の被爆者団体を設立。94年の退官を機に長女方に近い船橋市に越した後は日本被団協の事務局を手伝い、2011年から代表委員として運動を引っ張ってきた。

墓石に「平和」刻む

 そして招かれた5月27日、オバマ米大統領の広島訪問行事。数日前に救急車で運ばれるなど体調が万全でない中、「多くの被爆者の名代だから」と無理を押し、当日に新幹線で駆け付けた。平和記念公園(中区)ではオバマ氏と対話できなかったが、歴史を直視し、教訓に学ぶよう訴えた演説には共鳴したという。自らの信念に通じる部分を感じたからだ。

 ただ「言葉だけでは意味がない」とも。核軍縮は遅々として進んでいない。各国はにらみ合い、軍事費を増大している。「核兵器も戦争もない世界へ、明らかな前進が見えない限り、母や妹に『無駄死にじゃなかったよ』と伝えられない」

 10年前、一家の墓を広島市内から自宅そばへ移した。墓石には「悠久の祈り―平和」と刻む。「命ある限り、平和のために力を尽くす」との誓いの意味を込めて。ことしも2人の命日が巡り来る。広島に赴き、さまざまな集いで「共に行動しよう」と訴えるつもりだ。(田中美千子)

(2016年7月22日朝刊掲載)

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