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連載・特集

オバマ米大統領を迎えた夏 52分の重み <4> 平山さんの絵

生かされ描いた「平和」 あの日見た炎 筆で昇華

 オバマ米大統領は、初めて訪れた原爆資料館(広島市中区)東館1階で芳名録にメッセージを書き終えると席を立ち、背後の陶壁画の大作を眺め始めた。尾道市出身の日本画家、平山郁夫さん(2009年に79歳で死去)の「平和のキャラバン・東(太陽)」(縦4・8メートル、横6・0メートル)。砂漠を西に向かうラクダを描く。

 今月上旬、その絵の前に平山さんと修道中で同級だった2人が立った。「平山君は絵筆に平和への願いを込めた。『生かされて生きとる。いつもそういう気持ちで描いとる』とよく言ってたねえ」。石本芳郎さん(86)=中区=が記憶をたどると、奥本博さん(86)=同=も「原爆に人生を奪われた友人や後輩を思う気持ちはずっとあった」。

 東館の絵は、資料館西側にある広島国際会議場に展示された、東へ進むラクダを描く「平和のキャラバン・西(月)」と一対。東西から歩み寄って一つの世界を築き上げるという平和観を表した。1985年に完成し、その後、平山さんの強い希望でそろって被爆地に飾られた。

被爆体験が原点に

 その画業の原点には被爆体験がある。平山さんは修道中3年の時、黄金山(現南区)の麓にあった学徒動員先の陸軍兵器補給廠(しょう)の材木集積場で閃光(せんこう)を見た。山に逃げ、燃える街をぼうぜんと5、6時間見つめたという。下宿先も壊れ、瀬戸田町(現尾道市)の実家に帰らざるを得なかった。

 戦時下に「空腹でも時間を忘れられる」と描き続けた平山さんは、59年発表の「仏教伝来」が院展で高評価された。「その頃は白血球が急減し、自宅の階段を上がるのもしんどかったと後に聞いた」(石本さん)。原爆の後遺症とみられる体調不良を乗り越えてのことだった。

街見守る不動明王

 仏教や東西文化の交流史を壮大なスケールで表現し続けた平山さんは生涯でただ一枚、被爆体験を描いた。炎に包まれる広島を、不死の象徴である不動明王が見つめる「広島生変図」。79年に平和記念公園で眺めた「平和の灯(ともしび)」に、あの日の炎を重ね見た上に「広島は生まれ変わり生き続ける」とのメッセージに昇華した。

 広島生変図の陶壁画(縦2・7メートル、横5・5メートル)は資料館東館の地下1階にある。「オバマさんはこの絵こそ見てほしかった」。平山さんと同じ動員先で被爆した2人の同級生は口をそろえる。奥本さんは両親と弟、妹の家族6人を失った。弟と妹は遺体が見つからず、焼け野原になった播磨屋町(現中区)の自宅跡で見つけた小さな骨を「きっと妹だ」と握りしめた。石本さんは原爆で亡くした母親の遺体を焼いた。炎の中に見た、か細い腕が今も忘れられない。

 「この平山郁夫という画家は被爆者です」。5月27日。「太陽」の陶壁画を眺め始めたオバマ氏に、広島平和文化センターの小溝泰義理事長は英語で話し掛けた。限られた時間を意識し、早口で「彼は1枚だけ原爆の絵を描いた。二度とこんなことを起こしちゃいけない、人々を守るという強い意志がこもっている」。最後まで聞き入ったオバマ氏はその場に専属カメラマンを呼び、小溝理事長と肩を組んで写真に納まった。(久保友美恵)

(2016年7月23日朝刊掲載)

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