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連載・特集

オバマ米大統領を迎えた夏 52分の重み <5> 日系2世の大使館員

非戦願い 日米の橋渡し 弟や捕虜の思いを胸に

 「私の戦闘服は何色でもない、透明だったよ」。戦後、在日米大使館に勤めた岩竹信明さんが生前、漏らした一言を、長男和明さん(59)=東京都=は忘れられない。

 岩竹さんは広島から米ハワイへ移民した両親を持つ日系2世。ハワイから日本に渡り、日本軍に徴兵されて戦火を交えた末、原爆に弟を奪われた。透明―。その言葉に、日米両国の非戦を願った心情がにじむ。

 5月27日、平和記念公園(広島市中区)でのオバマ米大統領の訪問行事には、和明さんたち遺族3人が米政府に招かれた。「歴史的訪問を誰より喜んだはず」。亡き父の生涯に思いをはせ、演説を聞いた。

 岩竹さんはハワイ・マウイ島に生まれ育った。6人きょうだいの長男。食料品店を営んでいた父親が海難事故で急逝したため、1941年6月、親戚を頼って広島市へ。半年後、日本軍が真珠湾を攻撃し、日米が開戦した。

戦地で育んだ友情

 岩竹さんは徴兵を逃れたい一心で進学した。しかし、明治大在学中の43年、学徒出陣が始まると硫黄島行きが決まる。乗り込んだ輸送船が撃沈され、父島に行き着いた。

 父島では英語力を買われ、海軍の通信所で米軍の無線交信の傍受を担う日々。そこで米国人捕虜の若いパイロットと出会った。「身の上を語り合った」「闇夜を一緒に歩いていた時、穴に落ちた私を救ってくれた」。友情を育んだ捕虜とのエピソードを家族に語った。それも戦争に引き裂かれる。45年3月、硫黄島が陥落すると、捕虜は斬首された。

 復員した広島でも悲劇が待っていた。県立広島第一中学校(現国泰寺高)1年だった弟の孝さん=当時(13)=が原爆死。雑魚場町(現中区)の校舎の焼け跡で見つかった遺体は、ズボンに書かれた名前が辛うじて焼け残っていたという。「医師になりたい」と勉強に励む末の弟をかわいがっていただけに、晩年まで「孝が生きていたらなあ」と漏らした。8月6日には家族を連れ、広島に何度も赴いた。

 戦後は東京の米通信社勤務を経て、在日米大使館の広報・文化交流部に34年間勤めた。在職中に名乗ったのは「ウォーレン・イワタケ」。父島で出会った捕虜の友、ウォーレン・ボーンさんに由来する。「彼の分も生きて日米友好に尽くす」。そう誓いを立てたからだという。

人生翻弄された父

 岩竹さんが日本に残った一方、その弟や妹は再び米国で生きる道を選んだ。愛国心を示すためか、弟たちは朝鮮戦争に従軍した。

 「日系人としてどこに心を置けばいいのか、戦中は苦悩したのだろう」。2012年に88歳で亡くなるまで父と同居していた和明さんは、日米のはざまで翻弄(ほんろう)された人生を思いやる。ただ、戦後の父の背からは日系2世の誇りを感じたとも。「日本人、米国人の両方の視点が分かるからこそ懸け橋になれる。そんな思いがあったのでは」

 岩竹さんは自宅の居間に、亡くなる10年ほど前に入手したボーンさんの写真を飾っていた。今、傍らには岩竹さんの遺影が置かれている。(田中美千子)

(2016年7月25日朝刊掲載)

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