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連載・特集

オバマ米大統領を迎えた夏 52分の重み <6> 被爆した米兵捕虜

惨禍の犠牲 憎しみ・同情 市民、目撃談や絵残す

 がれきの中で傷だらけの上半身をさらし、柱にくくりつけられた米兵の絵が、原爆資料館(広島市中区)に所蔵されている。旧日本陸軍の見習士官だった武内五郎さん(93)=安佐南区=が原爆投下からの数日間に相生橋(現中区)近くで見た光景だ。周りに、人々が投げ付けた石やがれきが散乱していた。「私も投げた一人です」。71年前の現場に立った武内さんは、静かに振り返った。

取り上げた赤ん坊

 米国が原爆を広島に投下した時、武内さんは宇品港(現南区)近くの海で特攻艇の訓練を指揮していた。その日のうちに市中心部へ入り、13日まで負傷者の救護や、犠牲者の遺体の火葬に当たった。

 「特につらかったのは、原爆の衝撃で産気づいた女性たちの手助けでした」。重傷を負い、苦しみながらも命を紡ごうとする母親たち。だが、武内さんが取り上げた多くの赤ん坊は既に息をしておらず、顔は真っ白だった。

 死んどるなんて言えん―。戸惑う武内さんに、母親たちは「この子をお願い」「兵隊さん、敵を討ってね」と言い残し、息絶えていった。

 だから、米兵を見た時、思わず石を握った。

 同じころ、親類を捜しに五日市町(現佐伯区)から市内に通った山田須磨子さん(91)=佐伯区=も、相生橋付近で米兵2人を見ていた。

 2人とも板で作られた十字架に針金で縛り付けられていたようだった。顔は青白く、1人は頭から血を流していた。「自分の死を故郷の両親に伝えてほしいと訴え掛けられた気がして。何もしてあげることができず、胸が詰まりました」

 その悲しげな顔が忘れられず、戦後も相生橋を通るたびに手を合わせた。「遺族に何か伝われば」と、1975年と2002年に計4枚の米兵の絵を描き、原爆資料館に寄贈した。

中心部に12人収容

 被爆死した米兵捕虜を巡る事実を調べてきた歴史研究家で被爆者の森重昭さん(79)=西区=によると、45年8月6日、今の広島県庁(現中区)付近にあった中国憲兵隊司令部と、広島城周辺に12人の米兵捕虜が収容されていた。爆風で建物が壊れたため、即死したり外に出たりしたとみられる。森さんに証言を寄せた武内さんや山田さんのほかにも、広島城二の丸の辺りでの目撃談が残る。

 5月27日。オバマ米大統領は平和記念公園(中区)で原爆慰霊碑に花輪を手向け、碑前での「ヒロシマ演説」で追悼の対象に米兵捕虜を挙げた。米政府の招待者として会場の最前列に座っていた森さんに歩み寄り、肩を抱いた。その様子を老人保健施設の自室のテレビで見届けた山田さんは「兵隊さんの無念が少しは報われたかな」と思えた。

 武内さんは特攻隊として沖縄への出動命令を待っていた45年8月15日、終戦を迎えた。「当時は米兵への敵対心でいっぱいだった。でも今は、憎むべきは戦争と核兵器だとはっきり言える」(久保友美恵)

(2016年7月26日朝刊掲載)

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