×

連載・特集

オバマ米大統領を迎えた夏 52分の重み <7> 花輪の女子高生

核なき世界に届くまで 曽祖母の思い受け継ぐ

 広島市中区の平和記念公園。広島女学院高3年の並川桃夏さん(17)=佐伯区=が、曽祖母の庭木輝子さん(91)=安佐北区=たちを「特別な場所」に案内した。5月、原爆慰霊碑へ手向けてもらう花輪を手渡すため、オバマ米大統領と向き合った場所。「優しい表情で受け取って、真剣に祈ってくれたんよ」

 並川さんは昨春、米ニューヨークであった核拡散防止条約(NPT)再検討会議へ平和首長会議(会長・松井一実広島市長)から派遣された高校生8人のうちの1人。その縁でオバマ氏の訪問行事に招かれた。「『プラハ演説』で核兵器のない世界を目指すと言ったオバマさんにずっと期待し、広島を訪れる日を心待ちにしていたんです」

 広島市で生まれ育った。原爆や平和に関する問題に関心を持ったのは中学1年の時。初めて訪れた原爆資料館(中区)で、来館者の対話ノートに「アメリカが憎い」との記述を見た。ショックだった。「資料館が伝えたいのは核兵器の悲惨さ。平和って何だろう」

取材直前に急逝も

 高校1年で、核兵器廃絶を訴える街頭署名に取り組む課外活動の「署名実行委員会」に参加。被爆の実態を紹介するウェブサイト「ヒロシマ・アーカイブ」に載せる被爆者の証言収録に力を注いだ。まるで昨日の出来事のように「あの日」を語る被爆者たち。取材予定日の1週間前に急逝する悲しい経験もした。「自分たちが被爆者の言葉を聞ける最後の世代かも」との思いを強めた。

 母方の曽祖母、庭木さんが被爆者と知ったのも、そうした活動を始めてからだ。

 庭木さんは原爆が落とされた時、勤め先の広島県府中町の東洋工業(現マツダ)の工場にいて、倒れたロッカーの下敷きになった。その日の夕方には入市し、壊滅したまちを見る。戦後8年に生まれた次男を白血病のため2歳で亡くした。「被爆したせいかもしれん」と自分を責めた。体験を家族以外には語らず、被爆者健康手帳を取得したのは被爆して27年後。長女の結婚でようやく決心がついた。

政府 姿勢変わらず

 もし自分があの日に生きていたら―。並川さんは、曽祖母をはじめ約20人の被爆者から証言を聞くたび想像した。「原爆は恐怖以外の何物でもない。そんな体験や思いは誰にもさせちゃいけない」

 素朴な、当たり前の願いはしかし、国際社会には届かない。核軍縮の進展を期待した先のNPT再検討会議は最終文書を採択できずに決裂。並川さんは、外務省が外相会合の事前行事として3月に広島市で開いた若者の集会に登壇し、岸田文雄外相に核兵器禁止条約の早期制定を訴えた。だが、日本政府の姿勢は変わらず後ろ向きだ。

 「核兵器廃絶は遠い道のりかもしれない。でも一人一人が声を上げ続けるのは無駄じゃない。オバマさんが広島に来てくれたように」。あの場に立ち会った一人として、ヒロシマを発信し続けようと思う。

 ひ孫が米大統領に向き合った場所を踏みしめた庭木さんは願った。「私の体験をしっかり受け止めてくれたこの子には、核兵器のない世界に生きてほしい」(有岡英俊)

(2016年7月28日朝刊掲載)

年別アーカイブ