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社説・コラム

キーパーソンがゆく 広島市中国帰国者の会(広島市中区)・松山鷹一副代表

広島で「満蒙開拓団」展 残留孤児の歩み紹介

 戦時中に国策で旧満州(中国東北部)に入植した「満蒙(まんもう)開拓団」と、戦後の帰国者の苦難を伝えるパネル展を昨年から広島市で開く。中国残留日本人孤児2世として「国家に翻弄(ほんろう)された開拓団の存在を広く伝えたい」と力を込める。

 戦争末期と戦後の混乱で中国から出国できず、辛酸をなめた経験を持つ家族の交流と助け合いを進めようと、広島市内に数団体あった帰国者の会を2015年に統合した。現在、会員は約160人を数える。

 母の一家は開拓団として旧満州の四平省(現吉林省)に入植。1945年8月9日のソ連軍侵攻による混乱の中、2歳だった母は祖父の知人だった中国人養父に預けられ、中国人として育てられた。肉親を捜すため中国人の夫と89年に来日した母に続き、長男である自身も、30歳だった96年から広島市で暮らす。

 戦時中、幼かった母は、日本の出身地を知らない。「自分たちの来歴を探したい」。戦時中、旧満州に暮らす人々から安値で土地を買収し、入植した満蒙開拓の実態を紹介する展示を通じ、同じ悩みを抱える会員と情報を求め続ける。

 81年に始まった残留孤児の集団訪日調査から35年が経過し「社会の関心が薄らいでいる」と感じる。大人になるまで中国語を母語としていたため、ほとんどの帰国者は日本語が話せない。自身も中国では麻酔医だったが、日本では資格が認められない上、言葉の壁もあり安定した職に就くのが難しい。「無理解と偏見に苦しむ人も多い。自分たちも日本社会の一員。残留孤児の歩みを、より多くの日本人に知ってほしい」(栾暁雨)

まつやま・たかいち
 1965年、中国吉林省生まれ。麻酔医として約7年間、同省の病院に勤務後、中国残留日本人孤児1世の母親に続いて来日。調理師とホームヘルパーの資格を持つ。残留孤児が多く住む広島市中区基町地区に近い市中央公民館で、料理教室や介護講座などを主催する。

(2016年7月28日朝刊掲載)

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