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連載・特集

『論』 「ウルトラ」50年 空想を笑えぬ現実がある

■論説主幹・佐田尾信作

 小学生の頃、前夜見たテレビ番組が級友との雑談の主役だった。男子ならプロレスにアニメ、スポ根ドラマ…。そして「空想科学」を冠した特撮ドラマが欠かせなかった。そのはしり、TBS・円谷プロ制作の「ウルトラQ」の放映からことしで50年になる。

 27話を本放送で見た。当時、子ども心を捉えたのは怪獣と同世代の少年たちが登場する作品だった。それを見てはガラダマ(隕石(いんせき))から出現したガラモンのように手をぶらぶらさせて遊んだり、小銭をじゃらじゃら持つ級友をカネゴンとあだ名したり―。

 だが、今にして思えば「あり得るかもしれない別の世界」を暗示するような幾つかの作品もまた、時代に鋭敏な作り手たちが神髄を究めたのだろう。その一つに「2020年の挑戦」がある。

 遊園地で、プールで、若者が相次いで消失する事件が起き、新聞記者由利子たちが謎を追う。それは2020年の未来から来たケムール人が、老いた自身の肉体に代わる若い地球人の肉体を求めた誘拐だった。やがて深夜に観覧車よりも巨大化した怪人の姿は幻想的で、今も強い印象を残す。

 「ウルトラQの精神史」の著者小野俊太郎は、モノクロの劇中でネガとポジを反転させる表現が多用されている点に触れ、未来と現在の「反転」の暗示とみる。ドラマの撮影が始まった1964年は東京五輪開催の年であり、2020年は56年ぶりの東京開催の年だ。

 むろん偶然の一致だろう。しかし、老化を恐れるのは間違いなく今の日本の姿である―という著者の見方にはうなずける。ケムール人が若者をさらわなくても、社会保障や雇用を巡る現実が若者も高齢者も脅かしてはいないか。あの頃の「空想」を笑えない。

 世は「ウルトラマン」放映50年で盛り上がるが、「ウルトラQ」はそのひな型だ。原題は「アンバランス」と呼ばれ、私たちの日常の揺らぎをテーマにしていた。番組の終わりに毎回流れる俳優石坂浩二の語りには、見る者を落ち着かせない雰囲気があった。

 「1/8計画」という作品では、人を8分の1に縮めて同サイズの街に入居させる過密都市「東京」が出現する。すると、今の人類が誰の手で、いつなぜ、小さくされたかは謎である―と最後に語られる。今の君こそ縮小人間ではないか、と問うのである。

 あらゆるエネルギーを吸収して空を覆う宇宙胞子「バルンガ」と人類の戦いを描く作品もそうだ。人工太陽で誘導して放逐したものの、明日の朝輝いているのは太陽でなくバルンガかもしれない―という語りに引き込まれた。

 しかし、地球の人口は「1/8計画」もないまま、この50年で40億人増え、エネルギー需要は4倍に膨らんだ。バルンガとは人類のことか、と考えてしまう。

 巨大化したヒーローが怪獣や異星人と戦う「ウルトラマン」も随所に問い掛けがあった。一つ作品を挙げるなら「故郷は地球」。国に見捨てられた宇宙飛行士ジャミラが生き延びて怪獣に姿を変え、復讐(ふくしゅう)のため地球を襲う。ウルトラマンと科学特捜隊は涙をのんでジャミラを倒し、慰霊する。

 本当の侵略者は、本当の受難者は誰なのか。正義の名の下に葬った相手も悲しい存在ではなかったのか―。善悪二元論だけで切り分けないストーリーは、それぞれ戦争体験を持つ作り手たちのこだわりの証しだったのだろう。

 善悪二元論はむしろ現実の方か。「私は障害者総勢470人を抹殺することができます」と衆院議長宛ての手紙で予告し、障害者施設で45人を殺傷した許し難い事件が日本で起きた。容疑者は自らのゆがんだ正義感を疑いもしない。

 銃乱射などによる単独犯行で犠牲者77人を出した5年前のノルウェーの事件を思い出す。多文化主義に反対する行動だと主張していた。米国では性的少数者への憎悪に基づく犯罪も起きた。

 特撮の作り手たちは空想という表現で、理想を語っていたのだろう。今は現実の方を空想、いや悪い夢だと思いたくもなる。(敬称略)

(2016年7月28日朝刊掲載)

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