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社説・コラム

『別れの記』 カトリック広島教区名誉司教・三末篤実さん

6月28日 80歳で死去 ヒロシマの使命 自覚

 「ローマ法王にジョークを言った日本人は私ぐらいです」

 司教に任命されて後、時の法王ヨハネ・パウロ2世と面会したが外国語が苦手。「アイム・メード・イン・ジャパン(私は日本製)」と口走ってしまう。以来「ジョイフル・ビショップ(愉快な司教)」と法王に覚えられて、ハグされた。そんな思い出を楽しそうに語る丸顔が浮かぶ。

 ユーモアと気遣いの人だった。腎臓の人工透析で長年通院したが、とかくふさぎがちな院内を明るくしようと、誰彼なしに「ボンジョルノ!」とあいさつした。湿っぽい葬儀は嫌だという遺言により弦楽四重奏で送られ、参列者に好物だったもみじまんじゅうが配られた。

 長崎県平戸市の農家の三男。カトリック信徒の曽祖母から「踏み絵を踏まされた」と聞いて育ち、苦学して神学校を出る。長崎の教会に奉職した後、日本と広島のカトリックの重要な節目に立ち会ってきた。

 1981年のヨハネ・パウロ2世の来日と広島訪問では事務方として奔走。85年から26年間、広島教区司教を務めた。その間、世界平和記念聖堂(広島市中区幟町)が、原爆資料館とともに戦後建築で初めて国の重要文化財に指定される。私の取材に「信徒や司祭のためだけの場ではない。それを伝えたい」と決意を新たにしていた。

 江戸初期キリシタン殉教者の「列福式」が長崎市で営まれたことも大きな出来事だ。広島藩家臣を含む中国地方の5人が福者に列せられたことは、感慨深いものだったに違いない。

 広島教区の肥塚侾司神父(75)は「彼はカトリックのいわば『保守本流』ですが、ヒロシマの司教であることを強く自覚していました。思想信条が異なる神父の活動も受け入れ、その結果に責任を持ってくれた」としのぶ。天に召されても、ジョイフル・ビショップであれ。(佐田尾信作)

(2016年7月28日朝刊掲載)

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