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連載・特集

[オバマ米大統領を迎えた夏] 被爆者運動60年 全国団体アンケート

核廃絶の具体策切望 広島

 オバマ米大統領の5月の広島訪問を、各都道府県と中国地方5県の被爆者団体の9割近くが前向きに受け止めたことが、中国新聞のアンケートで浮かび上がった。ただ、「ヒロシマ演説」で核軍縮の具体策に踏み込まなかったことや、原爆投下の謝罪回避には不満もくすぶる。被爆者の唯一の全国組織、日本被団協は来月10日で結成60年。再び被爆者をつくってはならない―。その運動の担い手は老いを深め、一日も早い「核兵器なき世界」の実現を切望している。(田中美千子、有岡英俊)

訪問の受け止め 献花・追悼 高い評価

 被爆者は5月27日のオバマ氏の広島訪問をどう受け止めたのか―。115団体のうち105団体の被爆者が回答。「とても意味があった」「まあまあ意味があった」が計94団体(89・5%)を占め、米国の現職大統領として初めて平和記念公園(広島市中区)を踏んだ決断を広く支持した。

 オバマ氏は公園に52分滞在した。評価理由(複数回答)では7割に当たる75団体が「原爆慰霊碑に献花して犠牲者を追悼した」を選んだ。碑前に白い花輪を手向け、5秒間、目を閉じた姿が被爆者の心情に訴え掛けたようだ。

 自由記述でも「被爆地で世界にメッセージを発信したことに意味がある」(宮城県原爆被害者の会)「各国の首脳が被爆地を訪問しやすくなる」(鳥取県原爆被害者協議会)などと、訪問自体に一定の意義を認める意見が目立った。

 訪問行事に招いた日本被団協の坪井直代表委員(91)、歴史研究家の森重昭さん(79)の2人の被爆者との対話や、原爆資料館で特設された犠牲者の遺品や惨状の写真を見たのも、それぞれ40団体以上が評価した。

 一方、17分を費やした「ヒロシマ演説」を評価したのは8団体だけ。「原爆投下を正当化する米国世論がある難しい立場で最高の言葉だった」(山梨県原水爆被爆者の会)などと好意的な感想は少数だった。逆に、「71年前、空から死が落ちてきて世界は変わった」との冒頭の言葉に、原爆投下国の責任を感じられない、として10団体が不快感を示した。

 演説で核兵器廃絶に向けた具体的な展望や方策を欠いた点への批判も目立った。核問題に対する包括的な構想を打ち出した2009年4月の「プラハ演説」の衝撃が大きかっただけに、被爆地発のメッセージとして物足りなさを感じたようだ。

 また自由記述で、複数の団体が、訪問を受けて活動を活性化させる意向を表明。広島市原爆被害者の会は「オバマ氏の言葉を引用して日本被団協が進める国際的な署名運動や、核保有国首脳への手紙の発送などに取り組みたい」と具体策を挙げて決意を示した。

謝罪の必要性 割れる意見 思い複雑

 オバマ氏は被爆者への謝罪の言葉を口にしなかった。米大統領が今後、被爆地を訪れる時に謝罪すべきだと思うか―。質問した105団体のうち、「思う」は32団体、「思わない」は38団体、「どちらとも言えない」が30団体。ほぼ三分し、複雑な感情を反映した。残りの5団体は無回答。

 謝罪を求める団体は「多くの非戦闘員を含む無害の人間を殺傷した」(福島県原爆被害者協議会)、「原爆の放射線被害で、世代を超えて2世、3世の健康障害、不安を抱き続かせた」(石川県原爆被災者友の会)と非人道的な被害に対する責任を追及した。

 一方、必要ないとした団体は「過去の謝罪よりも未来に向けた具体的な行動が最大の償い」(安芸高田市・向原町原爆被害者の会)に代表されるように、被爆者の宿願の核兵器廃絶へ、核超大国の指導力を発揮することに期待した。

 「どちらとも言えない」を選んだ団体の中には、被爆71年で「いまさら」と考えていたり、真珠湾攻撃を仕掛けた日本の責任を挙げたりする声があった。

「今も怒り」「かつて怒り」7割 米国への感情

 原爆を投下した米国への感情を聞くと、回答した100団体の被爆者のうち、「今も怒りがある」としたのは36団体。「怒りを抱いたことがあった」(34団体)を合わせると7割に達した。

 目立ったのは、家族や友人を奪われた体験から発する思いだ。「姉は14歳で被爆死。罪もない人間が殺された。許せない」(福岡県原爆被害者団体協議会)、「きょうだい3人が原爆で死んだ。恐ろしさは忘れない」(広島県世羅町・世羅西原爆被害者協議会)。宇部・山陽小野田原爆被爆者協議会は「一時期は健康が思わしくなく、戦争ってなんだ、どうして自分がと、原爆投下に怒りを感じたことがあった」と振り返った。

 一方、13団体が「怒りを抱いたことはない」とした。栃木県原爆被害者協議会は「戦争だから、けんか両成敗。この苦しみを二度と(次の世代に)させてはいけないとの願いが運動の起点だ」と説明した。「どちらとも言えない」は17団体だった。

国内外への訴え強化 広島

悲願の禁止条約 国際署名集め 粘り強く

 「私たちと同じ被害を誰にも味わわせたくない。署名に協力してほしい」。オバマ氏が広島を訪れる1カ月前の4月27日、東京都渋谷区のJR渋谷駅前。日本被団協のメンバーが人波に懸命に声を掛けた。

 被団協は3月、核兵器を禁止し、廃絶する条約の締結を求める新たな国際署名集めを提唱した。国際社会では、核兵器を持たず、頼ってもいない国が、非人道性をてこに法的禁止を求める動きを強める。老いた被爆者たちも呼応し、国内外への訴えを強める。

 1956年8月10日の結成当初から、被団協は国際社会への働き掛けを続けてきた。「私たちの体験を通して人類の危機を救おうという決意を誓い合った」。結成宣言「世界への挨拶(あいさつ)」はうたう。海外への代表派遣も重ねてきた。

 ただ冷戦期、米ソを中心に軍備は増強の一途をたどった。核兵器は地球上にいまだに1万5千発超あるとされる。70年発効の核拡散防止条約(NPT)は、5カ国に核兵器の保有を認めた上で軍縮の交渉義務を定めるが、遅々として進まない。被団協は米ニューヨークの国連本部で5年に1度、NPT加盟国が軍縮策を話し合う再検討会議に代表団を派遣してきた。だが、直近の2015年は決裂し、落胆させられた。

 被爆者の平均年齢はことし3月末時点で80・86歳。核の非人道性に対する認識が広まるにつれて国際会議で「あの日」の証言を求められる機会も増えた。ただ幼い頃に被爆し、記憶を持たない「若手」が担わざるを得ない。

 5月、スイス・ジュネーブで、核軍縮の進展を目指す国連作業部会で証言した被団協の藤森俊希事務局次長(72)は「被爆時に物心ついていた人に比べ、リアルさに欠ける部分はあるだろう」と漏らす。「でも母親たちから何度も聞いた体験と思いは伝えられる」

 核兵器のない世界をいかにたぐり寄せるか。街頭で、国際社会で、被爆者たちは闘っている。

活動の力点 「学校・地域で体験証言」増加

 今後、力を入れる活動を尋ねた項目(複数回答)には115団体が答えた。「被爆者による学校や地域での被爆体験の証言」が65.2%(75団体)で最多。中国新聞が被爆70年の昨年にしたアンケートから5.7ポイント増えた。地道な証言を通じて被爆の実態を次代に引き継ぎたいとの思いがにじむ。

 「会員の健康と親睦の維持」が58.3%(67団体)、「核兵器廃絶に向けた署名・座り込みなどの運動」が48.7%(56団体)と続き、いずれも昨年より微増。被爆者同士が支え合い、核兵器廃絶へ取り組む決意にも変わりはない。

 46.1%(53団体)が「被爆2世の健診など国による援護策の充実を求める運動」も選び、今後の活動の担い手として期待される2世の支援も重視。「慰霊碑の維持や慰霊祭の実施」が45.2%(52団体)で、老いによって活動が鈍る中でも犠牲者の追悼を続けたいとの思いが表れた。

援護拡充へ闘い続く

 原爆投下後、被爆者には「空白の10年」があった。公的支援も、頼る組織もほぼなく苦境を強いられた。転機は54年3月、米ビキニ水爆実験によるマグロ漁船「第五福竜丸」の被災。原水爆禁止運動の広がりに、被爆者も声を上げ始めた。

 57年、国は被爆者健康手帳の交付を開始。認定された病気の治療費を負担するようになった。日本被団協はさらに座り込みやデモ行進、国会への請願など運動を展開。68年に健康管理手当をはじめとする各種手当の支給が始まるなど、援護施策は数十回にわたり拡充されてきた。

 しかし、被団協の最大の訴えは今なお実現を見ていない。原爆被害に対する「国家補償」。国の戦争がもたらした原爆被害を国に償わせることが再び被爆者をつくらせない道筋になる、との考えが根底にある。国は戦争の犠牲は「全ての国民が等しく受忍しなければいけない」とし、「償い」としての被爆者援護を否定し続けている。

 原爆症認定を巡る訴訟も続く。被団協は、病気や条件の基準を定めて審査する現行の認定制度を廃止し、症状に応じて支給金額を積み増す新たな手当制度の創設を要求。厚生労働省は「議論の末に作られた現行基準は重い」と応じていない。

「訪問の問題点 運動に生かそう」日本被団協の田中事務局長

 日本被団協の田中熙巳(てるみ)事務局長(84)に、アンケートの受け止めと今後の課題を聞いた。

 「核兵器なき世界」を掲げたオバマ氏に被爆者が寄せてきた期待は大きい。広島での言動に不満はあっても「国内事情に行動を制約されたのだろう」とおもんぱかり、訪問を前向きに捉える人はいるだろう。

 だが大事なのは、核兵器廃絶に向けた具体的行動だ。オバマ氏は演説で核軍縮策に触れなかった。原爆投下の責任を回避したのも含め、訪問の問題点を今後の運動に生かしたい。

 これから担い手の世代交代が避けられない以上、「あの日」の惨状はもちろん、被爆者の運動についても伝えていかねばならない。どんな思いで、どう闘ってきたか。これから何を成し遂げなければならないか。参考になるよう、被団協として資料作りを進めている。運動の精神を理解した上で、若い世代が自分たちの考えるやり方で取り組みをつないでほしい。

 核兵器がなくなっていないのは、何も被爆者だけの問題ではない。市民みんなの問題だ。核兵器の法的禁止を求める動きを後押しするため国際署名運動を始めたのは、政治家任せにしていては何も変わらないとの思いからだ。保有国の市民にも真剣に考えてもらえるきっかけをつくりたい。(談)

<被爆者運動と被団協の主な歩み>

1945・ 8・ 6 米軍が広島に原爆を投下。9日に長崎にも
  51・ 8・27 広島で吉川清氏たち約20人が「原爆傷害者更生会」            結成
  52・ 8・10 広島で吉川氏、峠三吉氏たち約50人を中心に「原爆            被害者の会」結成
  54・ 3・ 1 米国によるビキニ水爆実験で静岡県焼津市の漁船「第            五福竜丸」が被災
  55・ 8・ 6 広島で第1回原水爆禁止世界大会開会
      9・19 原水爆禁止日本協議会(日本原水協)が発足
  56・ 5・27 広島県原爆被害者団体協議会(広島県被団協)が発足            =写真
      8・10 日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)が発足。            事務局を広島に置き、事務局長に藤居平一氏を選出
  57・ 3・25 英水爆実験の中止を求め、被爆者が原爆慰霊碑前で座            り込み=写真
      4・ 1 原爆医療法が施行され、被爆者健康手帳を交付
  61・ 2・17 日本被団協が被爆者援護法要求国会請願大会。日比谷            から新橋まで初の街頭行進
  63・ 8・ 5 第9回原水禁世界大会が分裂
  65・ 2・ 1 原水禁国民会議を総評など13団体が結成
     11・ 1 厚生省が初の全国被爆者実態調査
  66・10・15 日本被団協が「原爆被害の特質と『被爆者援護法』の            要求」(つるパンフ)を発表。無料医療の実施など            13項目の要求を体系化
  68・ 9・ 1 被爆者特別措置法が施行。特別手当の支給始まる
  78・ 3・30 「孫振斗裁判」で最高裁が「国家補償的配慮が制度の            根底にある」と一、二審判決を支持。在外被爆者への            手帳交付が認められる
      5・22 日本被団協が第1回国連軍縮特別総会に代表団を派遣            =写真
  80・12・11 厚生相の私的諮問機関の原爆被爆者対策基本問題懇談            会が被爆者対策に関する意見書を提出。国家補償によ            る被爆者援護法に否定的見解。日本被団協は抗議声明
  82・ 3・25 日本被団協が世界に派遣する被爆者「語り部の旅」第            1陣2人が欧州へ
  84・11・17 日本被団協が「原爆被害者の基本要求」制定。「核戦            争起こすな、核兵器なくせ」「国家補償の原爆被害者            援護法」を二大要求に
  94・12・ 9 自民党、社会党などの連立政権下で被爆者援護法が成            立。国家補償と被爆者弔意は明記されず、生存被爆者            対策に。翌年7月1日施行
2003・ 4・17 原爆症認定集団訴訟始まる
  08・ 3・17 集団訴訟連敗で厚生労働省の審査会が認定基準を緩            和。がんなどは一定の被爆条件で「積極認定」
  09・ 8・ 6 集団訴訟の終結へ政府と日本被団協が確認書を締結。            一審勝訴で認定、敗訴も救済へ
     12・ 1 集団訴訟の敗訴原告に解決金を支払う基金に国が補助            する法律が成立
  11・ 6・ 8 日本被団協が現行法改正要求を決定
  12・ 3・27 08年の認定基準緩和後、国に原爆症の申請を却下さ            れた被爆者19人(うち2人は遺族が原告)が、処分            取り消しを求めて東京地裁へ提訴
      9・ 6 日本被団協の「二世委員会」が発足
  14・ 8・ 5 原爆胎内被爆者全国連絡会が広島市で発足
  16・ 5・27 オバマ米大統領が広島を訪問。日本被団協の代表3人            が訪問行事に招かれる

(2016年7月31日朝刊掲載)

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