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碓井静照氏死去 広島県医師会長 被爆者医療に尽力

 広島県医師会長で、核戦争防止国際医師会議(IPPNW)日本支部長の碓井静照(うすい・しずてる)氏が9日午前4時45分、食道がんのため、広島市南区の広島大病院で死去した。74歳。広島市東区出身。自宅は広島市東区牛田本町4の2の9。葬儀は近親者で行う。喪主は妻周子(ちかこ)さん。

 県と市の両医師会は、お別れの会を6月9日午前11時から、広島市中区基町6の78、リーガロイヤルホテル広島で開く。実行委員長は県医師会の松村誠副会長。

 碓井氏は広島大大学院医学研究科を修了した。広島赤十字病院内科副部長を経て、74年に東区で開業した。広島市医師会長を98年から3期6年務め、2004年に広島県医師会長に就任。地域医療の充実をけん引した。ことし3月には、30年ぶりの代議員投票となった会長選で5選を果たした。

 8歳のとき、爆心地から北東2・3キロの牛田本町にあった当時の自宅近くで被爆。在外被爆者の医療にも努めた。北米や南米に暮らす被爆者の現地健診に赴き、帰国治療を支えた。昨年10月には北朝鮮を訪問し、被爆者と面会した。

 4月末に、広島県や広島市などでつくる放射線被曝(ひばく)者医療国際協力推進協議会(HICARE)の会長にも選ばれていた。8月に広島市中区で開くIPPNW世界大会で、世界の医師を迎える予定だった。

 10年に中国文化賞を受賞、11年には旭日小綬章を受章した。「放射能と子ども達」「消えた十字架」など多数の著書を出版した。(山本堅太郎)

碓井静照氏死去 「強力なリーダー失った」 医師や関係者ら惜しむ声

 広島県医師会長などを歴任した碓井静照氏(74)が9日に亡くなった知らせを受け、ともに在外被爆者医療や地域医療の充実に努めてきた医師や関係者から惜しむ声が相次いだ。

 碓井氏は、核戦争防止国際医師会議(IPPNW)の日本支部長も務めていた。8月に広島市である世界大会を控え、同日本支部理事で広島原爆被爆者援護事業団の鎌田七男理事長(75)は「次世代に活動をつなごうと意欲を燃やしていた。強力なリーダーを失った」と残念がった。

 昨年10月には北朝鮮を訪問。県朝鮮人被爆者協議会の李実根(リシルグン)会長(82)は「行動で示してくれた」。県被団協の坪井直理事長(87)も「被爆者のために動く姿に、頭が下がる思いだった」と振り返る。

 「日本で診察を受けたこともある。先生がいなくては、在外被爆者の支援は向上しなかった」。ブラジル被爆者平和協会の森田隆会長(88)はそう言葉を詰まらせた。碓井氏たち県医師会メンバーは2008年6月、ブラジル・サンパウロ市を訪れ、現地の医師会と姉妹縁組。森田会長は立ち会った当時を懐かしんだ。

 医師確保に向け、昨年7月の県地域保健医療推進機構の発足にも協力。松浦雄一郎会長(75)は「『医の政治』に一生をささげた数少ない人物。医師不足解消に向けて頑張ろうと話し合ったばかりなのに」としのんだ。

 広島市の平和記念式典の平和宣言に盛り込む被爆体験談の選定委員でもあった。松井一実市長は「大いにご助力くださった。残念でならない」とのコメントを出した。湯崎英彦知事は「県の医療水準の向上と地域医療の充実に多大な功績を残された」とたたえた。

≪評伝≫ 碓井静照氏 国内外に優しいまなざし

 繁忙を極める広島県医師会長の要職。さまざまな会合でお目に掛かると、気さくに「お世話になりますね」と同席者に声を掛けた。

 食道がんで入退院を繰り返すようになってからも、優しいまなざしを絶やさなかった。

 そんな温厚な人柄の陰に、ヒロシマの医師としての信念を垣間見たのは、県医師会長に就任して間もないころだ。

 「放射線起因性」を盾に、被爆者の原爆症認定申請をいとも簡単に却下する国の姿勢を厳しく批判。「被爆者医療の貧困ですよ」と憤りをあらわにした。

 当時、原爆症認定の審査に当たる厚生労働省の分科会で委員を務めていた碓井さん。病を抱えながら老いゆく被爆者の姿に、いてもたってもおれなかったのだろう。

 原点は8歳の時の被爆体験だった。爆心地から2・3キロ離れた自宅近くで閃光(せんこう)を浴びた。防空壕(ごう)に運び込まれ、水を求めて息絶えていった人たちを目の当たりにした。それが医師を志すきっかけになったと語っていた。

 医師会が派遣した北米、南米での在外被爆者健診・健康相談事業に自ら何度も赴いた。

 2008年と昨年には北朝鮮を訪問し被爆者と面会。核や拉致問題を抱えるだけに、いぶかる声もあった。

 だが「被爆者はどこにいても同じ被爆者」と、持論を曲げなかった。

 チェルノブイリ、カザフスタン、そして福島にも足を運ぶ行動派ぶりを貫いた。とりわけ子どもたちの健康を気遣っていたという。

 日本ペンクラブ会員。出版した小説やエッセーは日英両語で30冊を数える。付箋にメモしては、いつも手帳に貼り付けていた。

 病気を押して会長選に臨み、5選を果たした。念願のIPPNW世界大会の広島開催まで3カ月。さぞ心残りだったに違いない。(客員論説委員・山内雅弥)

(2012年5月10日朝刊掲載)

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