×

社説・コラム

天風録 「賜杯とまな娘」

 「おまえ、三段目ぐらいか」。ちゃんこ料理店主の問いに、少年は「いや、幕下です」。店主は内心驚いた。見たところ体重80キロそこそこの体で幕下とは。見下されたのに嫌な顔一つ見せない。「こいつ、ガッツがあるぞ」。石井代蔵さんの評伝「千代の富士一代」から▲かつては目だけ、ぎょろつかせたオオカミだった。小さな体で大きな相手をつり上げようとして、何度も肩を脱臼する。ならば筋肉というよろいを強くすればいい―。常識を超えた筋トレに努めてウルフに。61歳で伝説の人になるとは、早すぎる▲父の秋元松夫さんは北海道のコンブ漁師。陸軍船舶司令部の一兵卒として広島で被爆した。息子の横綱昇進を機にそれを明かし、本紙の取材に応じてくれた▲力士の息子がよくけがをするのは原爆のせいではないか―。自分を責めたという。迷惑が掛かってはいけないと、口を閉ざしてもきた。賜杯とまな娘を両手に抱いて写真に納まる横綱。小さな漁村に残した父たちへの思いの証しだったかもしれぬ▲評伝によると、けが続きの頃は人呼んで「だめの富士」。辞めようとしたが、親に恥をかかせまいと思い直す。今はもう、いつでも北の空に帰れる。

(2016年8月2日朝刊掲載)

年別アーカイブ