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連載・特集

語り継ぐ廿日市 <中> 国民学校が救護所に 残る血やうみを何度も拭き取った

  廿日市市林が原の三村速美さん(80)は1945年8月6日、10歳の誕生日だった
 戦争一色で、誕生日だからといって朝から祝ってもらうこともなかった。普段通りに登校した。

 爆心地から14キロ余り離れた原国民学校(現原小)の4年生だった  午前8時15分は朝礼で校庭にいた。校長先生の話の時にぴかっと光り、すぐにドーンととどろいた。両目と両耳をふさいで校庭に伏せた。何も起きないので顔を上げると、東の空に雲が広がっていた。10時すぎに広島が火の海になっていると分かり、下校した。

  学校は救護所となり、被爆者を受け入れた
 手伝いで学校に行った8歳上の姉からいろいろな話を聞いた。けが人のガーゼを巻き直そうとすると皮がずるっとむけた。薬も十分になく、赤チンを塗るくらいしかできなかった。長さ50センチくらいの角材が目に刺さったまま運ばれた人もいたらしい。本当に気の毒でかわいそうと思った。

  1週間程度で学校が再開したと記憶している
 救護活動は続いていた。私たちは廊下を雑巾がけした。負傷者が歩いた場所に残る血やうみを何度も拭き取った。新しい汚れを見つけるたびに、また誰かの皮がちぎれたのかと考えた。感情まで戦争に支配されていたのか、怖いとは思わなかった。

  DVD「廿日市市から見た原爆の記憶」で初めて、あの日に見たことを証言した
 古い話は嫌われると思って、2人の子どもや6人の孫にも詳しくは話してこなかった。証言は平和を考える一助になればと引き受けた。戦争はただの殺し合い。その厳しさや悲惨さを知り、平和の大切さを理解してほしい。(山瀬隆弘)

(2016年8月5日朝刊掲載)

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