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連載・特集

被爆の記憶 次世代へ語り継ぐ 8・6式典 都道府県遺族代表

 広島市中区の平和記念公園で6日に営まれる市の原爆死没者慰霊式・平和祈念式(平和記念式典)に、37都道府県の遺族代表各1人が参列を予定する。市が1981年に招き始めて以降、2008年などの39人を下回り最も少ない。最高齢は90歳、最年少は40歳、平均年齢は70.4歳。次世代へ伝えるべき被爆の記憶や、「核兵器なき世界」への願いを聞いた。

オバマ米大統領の訪問を願って手紙を送った。実現し、亡き母もほっとしたはず

 ≪記事の読み方≫遺族代表の名前と年齢=都道府県名。亡くなった被爆者の続柄と名前、死没年月日(西暦は下2桁)、死没時の年齢、死因。遺族のひと言。敬称略。

土谷節子(63)=北海道

 母佐藤弘恵、15年8月5日、88歳、肺炎
 広島貯金支局に勤めていた母は爆心地から1・6キロの職場で被爆した。ガラスで背中をけがしたが、衝撃で痛みを感じなかったという。逃げる途中、ガラスで腹部が裂けて亡くなっている少女を見た。私が物心ついた頃から「地獄だった」と語っていた。

藤田和矩(70)=青森

 母俊子、46年9月3日、21歳、心不全
 私を身ごもっていた母は、白島九軒町の自宅で父を見送りに出て被爆し、下半身を大やけどした。出産が大変だったと祖父母から聞いた。形見の写真は肌身離さない。2年前にオバマ米大統領の訪問を願って手紙を送った。実現し、母もほっとしただろう。

佐々木隆一(73)=宮城

 父京一、16年2月16日、98歳、気管支肺炎
 陸軍通信隊の衛生兵だった父は馬木に配属され、けが人の救護にあたっていた。数日後に入市被爆したらしい。家では体験を語らなかったが、10年ほど前に自分史を本にまとめた。宮城県原爆被害者の会の会長を務めた父の反核への思いを引き継ぎたい。

伊藤豊子(69)=秋田

 父太田久吉、85年6月19日、68歳、骨髄膜炎
 南満州鉄道に勤めていた父は、祖父の葬儀のために母と長男を連れて観音町の母の実家に一時帰っていた。散歩中に被爆して行方不明になり、その後、因島の病院にいるのを母が捜し出したという。父は家では体験を語らなかったが、証言活動はしていた。

日詰和子(69)=山形

 父正、15年10月1日、98歳、ぼうこうがん
 父は被爆体験を一度も語らなかった。陸軍で比治山本町にいたという。悲惨な光景を思い出したくなかったのでは。60歳代で前立腺がんを発症。転移が続き、6回の手術を受けた。初めての広島で、弟、妹とともに原爆資料館などを巡り、父のあの日をたどりたい。

大内秀一(67)=福島

 父佐市、14年5月7日、84歳、心筋梗塞
 海軍の衛生兵だった父は原爆投下2日後に、救護のため呉市から広島市に入った。戦後、故郷の福島県川俣町に戻り、2011年3月に起きた福島第1原発事故で再び放射線の恐怖にさらされた。核と人類は共存できないという思いを胸に参列する。

茂木貞夫(82)=茨城

 父嘉勝、68年12月17日、80歳、心不全
 父は刑務官だった。吉島の刑務所にいて、被爆時にガラス片が体中に突き刺さった。通学中だった私も住吉橋近くで大やけどを負った。4カ月間寝たきりで生死をさまよった私を見て、父は「助からないかも」と苦しんだ。被爆者の痛みを忘れないでほしい。

淡路美佐子(51)=群馬

 父木戸照三、15年10月17日、84歳、肺炎
 父は大手町で電車を待っている時に被爆した。学徒動員先に向かっていたという。口下手で多くを語らず、私や娘を群馬県内の原爆展に連れ出し、戦争の愚かさを伝えようとしてくれた。広島を初めて訪問する娘2人と一緒に、父の足取りをたどりたい。

高橋溥(76)=埼玉

 父二郎、92年10月23日、88歳、老衰
 電信電話関係の仕事をしていた父は勤務中に被爆し、全身をやけどした。川に飛び込むのが遅れ、圧死せずに済んだという。被爆時のけがが元で母が51年に亡くなり、子ども6人を泣き言一つ言わずに育てた。思いを受け継ぎ、埼玉で父親の被爆体験を代弁したい。

日高貞子(87)=千葉

 夫正忠、16年2月21日、91歳、脳梗塞
 工兵だった夫は、宿舎の白島国民学校で被爆した。建物の下敷きになって助けを請う人を夢に見て苦しみ続け、わが子のささいな病気を「放射線の影響では」と案じた。仲間の遺骨を茶封筒に入れて遺族に届けた無念も孫に語った。広島で孫たちと冥福を祈る。

原発事故で再び放射線の恐怖にさらされた。核と人類は共存できない

藤沢汎子(73)=東京

 兄清水康夫、45年8月6日、12歳、被爆死
 兄は広島二中1年で、建物疎開作業に動員されていた。今の平和記念公園に近い本川沿いで被爆し、遺骨や遺品は見つかっていない。当時2歳の私に兄の記憶はないが、よく面倒を見てもらった、と聞いた。式典の後に、二中の慰霊碑も訪れたい。

松本正(85)=神奈川

 弟勝、45年8月8日、12歳、被爆死
 弟は当時、広島二中の1年。一家で西大工町から賀茂郡に疎開していたのに、嫁ぎ先から天神町に疎開してきた姉を5日に訪ねて1泊し、被爆した。己斐方面に逃げたが、救護所で8日未明に息を引き取った。親族を亡くした私には伝える使命があると感じている。

満田恵美子(75)=新潟

 夫誠二、15年10月31日、83歳、急性胆のう炎
 広島市立中1年だった夫は、深川村の疎開先から県庁に勤めていた父たち家族を捜そうと入市被爆した。後に高校教諭となった理由を「多くの子どもの幸せに関わり、動員中に被爆死した同級生たちの分まで生きるため」と語っていた。

竹内和逸(69)=富山

 父助次、69年9月14日、57歳、脳梗塞
 母から聞いた話では、父は陸軍の通信兵だった。被爆体験や軍隊の話について全く語らなかった。兄と私の縁談に差し支えると考えたのかもしれない。今も原爆の後遺症に苦しむ人がいる広島を、初めて訪れる。父や亡くなった方々を慰霊したい。

池田治夫(61)=石川

 父昭、57年5月19日、32歳、心不全
 父は45年5月に大竹市の海軍潜水学校に入っており、救援で入市したらしい。後に結婚した母にも様子を語らなかった。悲惨極まりない体験だったのだろう。軍歴証明を証拠に、ようやくことし原爆死没者名簿に載る。私も核廃絶の思いを新たに参加する。

内藤幹夫(52)=山梨

 父藤三、12年6月25日、88歳、肝不全
 陸軍通信兵だった父は比治山の壕(ごう)で機材の整備をしていて熱線の直射を免れた。意識を取り戻し、外で何を見たかは「覚えてねえ」と言ったが、本当かどうか分からない。地元被爆者団体の一員として平和の大切さを訴え続けた。2世として志を継ぐ。

福永誠子(73)=長野

 夫哲也、15年11月24日、84歳、うっ血性心不全
 旧制中学2年で、姉の出産の手伝いに広島を訪れた夫は、あの朝、福岡県に列車で戻ろうとしていた。広島駅に停車中、強い光で乗客の動きが止まって見えたようだ。マネキンを見るたびに思い出していた。亡くなるまで安全保障の在り方に関心を持っていた。

水膨れがひどくて誰か判別できず、衣服の名札で姉だと分かった

川本司郎(79)=静岡

 父貫一、45年8月19日、51歳、被爆死
 父は市役所の近くで建物疎開の作業をしていて、原爆で全身に大やけどを負った。家族が見つけた時は話せない状態だった。家族6人を残してこの世を去ることになり、とても悔しかったはずだ。式典には、初めて長女を伴い、核兵器の廃絶を願う。

丹羽洋子(73)=愛知

 姉関淑子、45年8月8日、13歳、被爆死
 姉は山中高女2年の時に被爆したが、当時の状況は分かっていない。宇品で見つかった時は水膨れがひどくて誰か判別できず、衣服の名札で姉だと分かったという。原爆慰霊碑の前で親族6人の冥福を祈り、姉の当時の状況を知る同級生らも捜したい。

阿部磨智恵(90)=三重

 弟高橋毅、96年8月15日、65歳、心不全
 南蟹屋町で学徒動員中に被爆した弟。8月7日、足にガラスが刺さったまま、古里の因島に戻ってきた姿を忘れられない。子どものためを思って、病に倒れる直前まで妻にさえ被爆を明かさなかった。被爆者健康手帳を手にしたのは亡くなる1週間前だった。

鷹木洋(65)=滋賀

 母和子、16年1月24日、96歳、老衰
 母は横浜から疎開先の鈴張村へ列車で向かっていて8月6日に広島市へ入った。当時の話をしたがらず「ひどかった」と繰り返すばかり。悲惨な光景を目にしたのだろう。被爆2世として復興した広島の今をしっかりと感じ、平和の大切さをかみしめたい。

小泉伊津子(79)=京都

 夫卓也、15年3月25日、82歳、死因不明
 夫は原爆投下後、戸坂村の自宅から家族を捜しに広島市へ入った。通りは歩くのが難しいほど遺体があったという。「生き残った者の使命」と、体験を手記にまとめ証言活動を熱心に続けた。夫の遺志を受け継ぎ、若者に「あの日」を伝えていきたい。

阪本貴美子(71)=大阪

 母福田幸子、56年3月7日、39歳、肺炎
 西観音町の自宅で被爆した母は、後遺症のせいか、入退院を繰り返し、家でも寝たきりだった。ほとんど会話ができず、被爆体験を聞けなかったのが心残り。式典の後、自宅があった辺りを訪ね、母が見たであろう景色を想像し、心に焼き付けたい。

高野光江(78)=兵庫

 兄三角文彦、45年10月7日、11歳、火傷死
 兄は通っていた三篠国民学校の校庭にいて被爆し、背面に大やけどを負った。寝たきりになり両親が看病したが、2カ月ほど後に亡くなった。まだ6年生だった。式典では、恨みではなく、両親への感謝の言葉を述べていた兄を追悼し、平和を祈りたい。

坂本美恵子(74)=奈良

 夫昇、15年7月5日、72歳、心不全
 夫は当時1歳。記憶がなく、ほとんど体験を聞かなかった。吉島の自宅で被爆するも無事で、すぐに五日市に疎開したという。高齢化が進み、体験を伝えられる被爆者が減っていると感じる。二度と戦争をしてはいけないとの思いを胸に式典に参列する。

生駒純子(82)=和歌山

 夫琴治、13年12月16日、87歳、脳梗塞
 陸軍の通信兵だった夫はあの時、皆実町の兵営内にいて建物の下敷きになった。背中や両腕に大きな傷痕があったが、暗い話を家族にしたくなかったのか、当時の体験はほとんど話さなかった。初めて出席する式典で夫の冥福を祈り、核兵器の廃絶を願いたい。

長沢孝之(64)=島根

 父定市、01年9月23日、85歳、凍死
 父は衛生兵として陸軍病院江波分院にいた。原爆の爆風で窓ガラスが吹き飛んだという。被爆後、外に助けを求める大勢のけが人がいたが、「何もできなかった」と悔しそうに話していた。残酷な悲劇を生むのが核兵器。世界からなくなるよう式典で祈りたい。

核に関する新聞やテレビをよく見ていた。寡黙だが核廃絶への思いは強かった

藤井康正(61)=岡山

 父稔、15年3月15日、86歳、食道がん
 広島鉄道教習所の生徒だった父は楠木町で実習中に被爆。つらい体験を胸にしまい込み、口にしなかった。ただ、核に関する新聞記事やテレビ番組をよく見ていて、核廃絶への思いは強かったはずだ。父が大好きだっためいたちと一緒に、平和を願いたい。

鈴木ひろみ(54)=広島

 父薫、16年3月10日、85歳、心不全
 賀茂郡東高屋村にいた父は、原爆投下当日、がれきの撤去作業のため松原町に入った。甲状腺機能の異常で苦しむ私を見て「わしが被爆したせいだ」とひどく落ち込んでいた姿を忘れられない。核なき世界のために自分に何ができるか、式典で考えたい。

木原千成(85)=山口

 妻怜子、15年10月2日、81歳、事故死
 原爆が落とされた時、妻は五日市の国民学校の校庭で朝礼中だった。けがはなく、その夜から学校で被爆者の救護に当たったという。看病した人たちが次々と亡くなったと振り返っていた。悲しそうに。私自身も被爆者。初参加の式典で妻の分まで平和を祈る。

林利行(58)=香川

 父利和、03年6月6日、75歳、膵臓(すいぞう)がん
 国鉄職員だった父。広島駅で機関助士として働き、作業中に被爆した。亡くなった人を列車に積み運んだと聞いた。その時の体験も被爆の影響も語りたがらなかった。71年たとうと、被爆地の悲しみは続く。歴史を繰り返してはならないと祈りたい。

八原勇人(40)=愛媛

 父浩、16年3月8日、90歳、老衰
 大手町の中国海軍監督官事務所に勤めていた父はあの日、尾道市で爆雷の検収をし、翌日広島市内に戻った。炎天下、体中焼けただれた人たちがうつろな目で歩く光景を「忘れることができない」と、手記に残した。戦争を繰り返さない決意を胸に式典に臨む。

岡崎伊寿(53)=高知

 父晋、10年9月5日、85歳、肺炎
 特攻部隊にいた父は、江田島からきのこ雲を見た。遺体の埋葬を手伝うため、その日の正午に広島市内に入った。戦友は体調を崩し、1週間後に亡くなったという。思い出すのがつらそうだった。父は広島で何を思ったのだろうか。式典に出て想像してみたい。

平  宏文(81)=福岡

 母ミドリ、06年7月21日、94歳、老衰
 医師だった母は、広島市中心部に向かう路面電車で出勤途中に被爆した。すぐに祖父宅があった八幡村(現佐伯区)に戻り、寺や学校で数カ月間、小柄な体で被爆者の看護に専念した。初めて出席する式典では、母の医師としての強い使命感をあらためて感じたい。

吉本桂三(80)=大分

 母アヤ子、12年2月14日、98歳、腎臓疾患
 母はあの日、江波町で自宅の下敷きになり、鎖骨を折った。戦後も江波に住み、亡くなるまで毎年、市の平和記念式典に行っていた。自宅前で被爆した私も、日差しがきつい日は真っ白い原爆の光を思い出す。戦争被害の実態や平和の大切さを伝えていく。

梅北美智子(73)=鹿児島

 姉トミ子、45年8月8日、13歳、被爆死
 姉は県立広島第一高等女学校の1年で、妊娠中だった母に代わり、2歳の私の面倒をよく見てくれていたという。建物疎開の作業に動員されて土橋付近で被爆した。当時の記憶はないが、姉の死を思い、「核は絶対にいけない」と訴え続けたい。

中原冨美子(70)=沖縄

 父隆明、81年4月3日、ヤコブ病
 富士見町の自宅で母や兄、祖母とともに被爆した父は、家の跡に残り、近所の犠牲者の遺体を親族が引き取りに来るのを待ったという。両親は当時の様子をほとんど語らなかった。私は胎内被爆者として核の恐怖を次代に伝える責務を年々感じている。

(2016年8月5日朝刊掲載)

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