×

ニュース

翌日、姉は原爆の犠牲に 鹿児島の梅北さん 日記に「再会」 広島平和式典参列へ

「美智子を風呂に入れたので喜んでゐた」

 広島県立広島第一高等女学校(現皆実高)1年で原爆死した梅北トミ子さん=当時(13)=が、1945年8月5日までつづった日記が原爆資料館(広島市中区)にある。「今日美智子を私が風呂に入れたので喜んでゐた」。最後のページにそう記された妹の梅北美智子さん(73)=鹿児島市=が5日、資料館を訪れ、日記と対面した。読み返し、原爆に引き裂かれた姉の、妹を思う愛情に触れた。(水川恭輔)

 日記は、トミ子さんが県女に入学した45年4月6日から始まる。「妹のお守りが上手になりたい」(4月13日)「妹のお手玉をこしらへた」(6月26日)…

 「優しくて真面目な姉にこんなにかわいがってもらったのに、私の記憶はゼロなの」。美智子さんは時折、目を閉じながら読み進めた。平和記念式典に参列する鹿児島県の遺族代表として5日、広島入りした。

 71年前の8月5日は日曜。トミ子さんは吉島本町(現中区)の家で妹を風呂に入れ、料理を手伝った。「夕飯はうどんだった。私がおしるに味をつけてこしらへたのでお父さんもお母さんも、おいしいおいしいと言はれた」。一日も欠かさなかった日記の最後の一文は「一生けんめいすると、何でも面白いと思った」。

 翌6日朝。小網町(同)一帯の建物疎開作業に出た。爆心地から約800メートル。全身を焼かれ、運ばれた軍需工場で8日に亡くなった。作業に出ていた県女1年223人は、誰も助からなかった。

 日記は、2003年に93歳で亡くなった母アキエさんが大切に保管していた。引き継いだ美智子さんが翌年、資料館に寄贈。今回、12年ぶりに実物を手にした。

 館は13年8月、子どもの未来を奪った原爆の悲惨さを伝える日記として、米インターネット検索大手グーグルのサイト「歴史アーカイブ」の公開資料にした。英訳され、世界中で閲覧できる。

 ことし5月、米国のオバマ大統領は、平和記念公園(中区)での演説で被爆前の家族の営みに触れた。美智子さんは自宅のテレビで見ていた。 「これまで地元で証言を頼まれても『記憶がないから』とほとんど逃げてきました。でも姉への思いを話すことが、何かの役に立つかもしれない」。日記を手に、そんな心境の変化を語った。

 6日の平和記念式典。姉におんぶされた写真をかばんに携え、平和を祈る。

(2016年8月6日朝刊掲載)

年別アーカイブ