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連載・特集

被爆71年 あの人を思う味 <上> 卵かけご飯 佐藤広枝さん=広島市西区

兄と半分こ 最後の朝食 苦しい時 生きる支えに

 原爆で失った大切な人を思うとき、忘れられない味がある。かけがえのない日常を奪われたあの日から71年。被爆者たちの胸に刻まれた食の記憶は今も鮮明だ。当時の思い出とともに、その味をたどる。

 広島を訪れる修学旅行生に、原爆の恐ろしさを語り伝えている。真っすぐに、まなざしを向けてくる子どもたち。12歳で亡くなった兄と同世代だ。丸刈りに丸い顔…。似た男の子を、つい探してしまう。無性に兄に会いたくなる。そんな日は、急いで家に帰って卵かけご飯を食べる。兄と一つの卵を分け合った。2人で食べた、最後の朝ご飯。

 幸せに暮らしていた。三川町で旅館を営む両親と兄、弟、妹の6人で。71年前、佐藤さんは7歳。兄の長門秀幸さんは広島市立造船工業学校(現市立広島商業高)1年だった。

 ところが原爆が投下される2カ月ほど前、佐藤さんは一人、家族と離れ親戚の家に疎開することに。遠くへ旅立つ娘をふびんに思ったのだろう。母が朝ご飯に用意してくれたのが卵かけご飯だった。

 「どうやって手に入れたのか、卵が一つあって」。小さな弟と妹はまだ布団の中。食卓についていたのは佐藤さんと兄の2人だけだった。母はその卵を割り、2人の茶わんに半分ずつ入れてくれた。

 ふんわりして、かむほどに甘かった。出発前の心細さを忘れてしまうようなおいしさで、夢中で食べた。だから兄と交わした言葉をぼんやりとしか覚えていない。確か、こう言われた。「元気にしとくんよ」。それが最後の会話になった。

 あの日、兄は材木町(今の平和記念公園)辺りで建物疎開の作業をしていた。大変なことが起きたと知らせを聞き、佐藤さんは広島に戻り、母と兄を捜した。でも見つけられなかった。材木町で、誰のものか分からない骨を拾い集めた。

 兄の写真も、思い出の品もない。あるのは心の中の記憶だけ。声を荒らげたことがなかった。ハンサムで、優しくて―。亥(い)の子祭りの日、こんなことがあった。佐藤さんが赤鬼に石を投げた。怒って追いかけてきた赤鬼に「大事な妹に何をする」と兄が立ちはだかってくれた。「その日から『お兄ちゃんのお嫁さんになる』と言ってね…」。自慢の兄だった。

 佐藤さんは次第に「兄の代わりに家族を支える」と思うようになった。太田川でシジミを採って売ったり、日雇いの土木作業をしたりして戦後を生きた。苦しいと思うとき、家族で卵を半分ずつ分け合って卵かけご飯を食べた。生き残ったことに感謝しよう、お兄ちゃんの分も頑張ろう、と。「兄のおかげで、強く生きることができた」

 もうこんな悲しい別れがないようにと願って、還暦を過ぎてからNPO法人を設立し、平和活動に力を入れる。だが、最近は入退院を繰り返す。「まだまだ、寝込んじゃあおられんよ」。元気のもとはやっぱり、卵かけご飯。兄と語らいながら、きょうも半分こして。(鈴中直美)

(2016年8月6日朝刊掲載)

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