×

ニュース

産業奨励館 画壇の記憶 核の惨禍描く原点に 洋画家の故大木さん、アルバムで保存

 戦前から広島の画壇で活躍していた洋画家の大木茂さん(1979年に80歳で死去)のアルバムから、原爆ドーム(広島市中区)の前身、広島県産業奨励館の館内の写真が見つかった。ドーム部分の天井を捉えた貴重なカットのほか、絵画教室など少なくとも8枚。いずれも30年代の撮影とみられ、文化活動の拠点でもあった当時の様子を伝える。戦後、原爆ドームを何度も描き、核兵器の惨禍を絵筆で発し続けた大木さんの思いの原点といえる。(水川恭輔)

 楕円(だえん)形のドーム屋根を下から捉えた写真は、奨励館中央のらせん階段室(5階建て)最上階の手すりや4階から通じる階段、窓の意匠が写る。原爆資料館(中区)によると、5階の窓と手すりのデザインが設計図と一致。館内からドームを明確に捉えた写真はこれまで確認されていないという。

戦時色映し出す

 このほか、「講習会 県産業奨励館」などとメモ書きされたアルバムのページには、来館者が風景画に見入る姿や、女性モデルを前に参加者がキャンバスに向かっている絵画教室の写真などが貼られていた。

 撮影時期は、全国的な洋画グループ東光会の広島支部が館内で何回か展覧会を開いた30年代とみられる。大木さんは32年から初代支部長を務めた。

 37年に海軍に従軍した市出身の画家、故小早川篤四郎さんが開いた「従軍画展覧会」の看板や、軍艦とみられる絵が並ぶ会場で小早川さんや大木さんたちを写したものもあり、強まっていた戦時色も映し出す。

 大木さんは戦前の広島の洋画壇で活躍し、戦時中は中国軍管区司令部報道班員に。「あの日」は庚午(現西区)の自宅近くで被爆し、弟の1人を亡くした。戦後も広島の画壇をリードして60年代ごろまで原爆ドームの壁やがれきの連作を描き、一部は広島県立美術館に所蔵されている。

10枚以上を確認

 「被爆前の奨励館の記憶も、戦後、『原爆ドーム』を描く絵筆を駆り立てたのだと思います」と、孫の平松敦子さん(57)=西区=は言う。大木さんの長男裕さん(90)の次女で、父が引き継いだアルバムを共に管理している。

 アルバムには、館内の写真も含め、奨励館関連は10枚以上を確認できる。平松さんは一連の写真の活用を願い、データを市に寄贈する意向でいる。原爆ドームに詳しい原爆資料館語学専門員の菊楽忍さんは「奨励館内の写真は、現存自体が少ない。館内での文化活動に迫る手掛かりとしても一枚一枚が貴重だ」と話している。

(2016年8月5日朝刊掲載)

年別アーカイブ