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ヒロシマ8・6 奪われた親族10人の命 語り継ぐ 横浜被災者の会・松本さん

 愛しい家族、何でも話せる幼なじみ、かけがえのない暮らしや思い出。原爆は何もかもを奪った。広島に投下されて71年となる6日、被爆者や遺族はつらい記憶とあらためて向き合った。二度と起きてはならないと伝えるために。5月に投下国のオバマ米大統領を迎えてから、初めての原爆の日でもあった。平和記念公園(広島市中区)でのオバマ氏の訪問行事に立ち会った若者たちは、新たな決意でこの日に臨んだ。核兵器のない世界に一歩でも近づけるために。

名前記し 灯籠流しに誓う

 原爆ドームを対岸に望む広島市中区の元安川の親水護岸。6日夜、横浜市原爆被災者の会事務局長の松本正さん(85)は、鎮魂の灯籠を初めて流した。書き込んだ名前は71年前に失った親族10人。同じ中学校に通った弟、5人の子を育てていた姉…。「皆の犠牲の上に築かれた平和を守るから」。川面に、奪われた命の重みを語り継ぐと誓った。

 自宅で一人一人の名前を書いた灯籠を携えてきた。まず書いたのは広島二中(現観音高)1年だった弟勝さん=当時(12)。あの日、旧中島地区(現平和記念公園)一帯の建物疎開作業のため集まっていた。焼かれ、逃げた寺で8日未明、息を引き取った。

 「亡くなる直前まで、か細い声で『お兄ちゃんが助けに来てくれる』と呼んでいたそうで…」。二中3年の松本さんは爆心地から約3・7キロの南観音町(現西区)の軍需工場から疎開先に避難し、死に目に会えなかった。

 姉米川喜久代さん=同(35)=とその2男3女の名もしたためた。現在の原爆資料館東館付近にあった自宅で、松本さんの兄が、米川さんと幼児3人の遺体を見つけた。まるで朝食を囲んでいたようだったという。新婚だったもう一人の姉夫妻、被爆後の混乱で栄養失調になり亡くなった乳児のおいも記した。

 自分を責め続けて生きてきた。「大したけがもなく逃げて助かった私はずるく、語る資格がないと思ってきました」。初めて人前で体験を証言したのは一昨年。被災者の会で急きょ、証言者の代役を務めた。聞いた高校生が「戦争は嫌だ」「平和はありがたい」と感想を寄せてくれた。少し許されたような気がした。地元で証言活動を始めたのはそれからだ。

 この日は、神奈川県の遺族代表として平和記念式典に参列後、本願寺広島別院(中区)での平和集会で体験を語った。

 火がともされ、10人の名が浮かぶ灯籠。「助けられず悪かったな」。弟への謝罪の言葉をつぶやいた。「8月6日に来られるのはこれが最後かも。せめてもの供養と思って死ぬまで語り続けるよ」(水川恭輔)

(2016年8月7日朝刊掲載)

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