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連載・特集

被爆71年 あの人を思う味 <下> ふかしたジャガイモ 藤恵京子さん=広島市西区

娘にくれた母の愛、胸に

 立派なジャガイモが手に入ると、せいろでふかして一番に届ける。あの夏、大きなジャガイモが食べたいと言って亡くなった、母イチコさんの元へ。湯気の上がるほくほくを仏壇に供え、その後でいただく。つんとしょっぱい味がするのは、涙のせい。9歳のとき、母は逝ってしまった。

 「清廉潔白な人でした」。母をそう振り返る。助産師で、地域のみんなから頼りにされていた。どんなお産も断らず、誰かが困っていると駆け付けていくような。だが藤恵さん自身は、甘えさせてもらった記憶がない。「もっとしっかりしなさい」と厳しかった。幼心にこんなことを考えた。私のこと、かわいくないのかな―。

 答えを聞けないまま、別れはやってきた。71年前の8月6日の朝、藤恵さんは広島駅から疎開先の三次町(現三次市)に向かう汽車に乗った。イチコさんは藤恵さんを見送った後、猿猴橋(広島市南区)付近で、当時1歳5カ月だった次女をおぶったまま被爆した。

 知らせを聞いて、藤恵さんが宇品町(現南区)の自宅に戻れたのが12日ごろのことだ。イチコさんは全身にやけどを負っていた。母だと、分からないほどに。言葉を交わすこともできないまま終戦の15日、31歳で息を引き取った。

 イチコさんをみとった祖母が後日、こんな話をした。「京子の母さんはなあ、『最後に大きなジャガイモが食べたい』と言っとったんよ」。被爆して自宅に運ばれてすぐの、まだ意識がはっきりしていた頃、つぶやいたという。

 ジャガイモ―。食糧難の時代のごちそうだった。ふかして、塩をまぶしただけの素朴な味。ふーふー言って頬張った。母が衣類やせっけんを担いで郊外に出掛けては、物々交換で手に入れてきたジャガイモだった。

 そういえば、母は大きいのをよって、私と妹に食べさせてくれた。「自分は、小さくて緑っぽいものばかり、ぼそぼそ食べていたのです」。そしてあの別れの朝、母が用意してくれた弁当もふかしたジャガイモだった。汽車に乗り込む娘に、「お昼に食べなさい」と。「私がしばらくして車中でそれを食べた頃、母はもう原爆に遭って倒れていたんだと思います」

 祖母はもう一つ、母が残した言葉を聞かせてくれた。「あの子は甘えん坊だから」と、自分が逝った後の藤恵さんを心配していたという。いなくなって気付いた。愛されていたんだ―。その実感を糧にして、戦後を生きてきた。

 大きなジャガイモを見ると買わずにはいられない。ふかして仏壇に供えて、母と話をする。4人の孫に恵まれてうれしいよ、お母さんの背中で奇跡的に助かった妹も元気で暮らしているよ…。ジャガイモの甘い香りに包まれる。母に抱かれている気がする。(教蓮孝匡)

(2016年8月7日朝刊掲載)

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