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社説・コラム

社説 「オバマ後」の8・6 地に足が着いた発信を

 大統領の折り鶴を一目見たい人が多かったのか。きのう広島市の原爆資料館は押すな押すなの行列ができた。ことしの原爆の日はさまざまな意味で「オバマ色」が強かったといえる。

 確かに5月のオバマ米大統領の訪問で、被爆70年の区切りを過ぎたのにヒロシマへの関心が高まっている。平和記念式典の会場の一隅に身を置き、周辺を歩いてそれを肌で感じた。

 むろん手放しで喜ぶ段階はとうに済んでいる。オバマ演説の本質を見極めて核兵器廃絶へのステップにつなぐべきであり、この1日は被爆地の発信力を強める格好の機会でもあった。

 なのに、総じていえば物足りなさが否めなかった。

 松井一実広島市長の平和宣言はどうか。「絶対悪」が街を焼き尽くしたという表現を用いて原爆の惨禍を強調した。朝鮮半島などアジアの人たちや米軍捕虜の犠牲に触れたのも特筆すべきことだろう。そして核兵器のない世界を追求する勇気を訴えたオバマ氏の言葉を引き、「情熱」を持っての「連帯」を国内外に呼び掛けた意味も重い。

 とはいえ平和宣言は今後のあるべき行動については具体性を欠いた印象もある。5月にオバマ氏と一緒に広島を訪問した安倍晋三首相にはリーダーシップの発揮を期待したものの、どこか歯切れが悪い。何より被爆者が望む核兵器禁止条約に関して「法的枠組みは不可欠」と一般論で言及したようにも映る。日本政府にもっと直接、制定への行動を促してもいいはずだ。

 首相にしても同じだろう。式典あいさつや記者会見などで、核兵器廃絶への実効性ある道筋を示せたとは言い難い。

 昨年は言及せず批判を浴びた非核三原則の堅持のほか、核拡散防止条約(NPT)体制の強化などをうたう一方で、禁止条約に直接触れなかった。「核兵器のない世界を必ず実現する」と広島の地で誓った意気込みはどこに行ったのだろう。

 過去に核保有の検討を口にした稲田朋美防衛相を巡り、「わが国が核兵器を保有することはあり得ず、保有を検討することもあり得ない」と当たり前のことを強調した首相発言の方が会見のニュースになる始末だ。

 「オバマ訪問後」の先行きが見えにくい背景には、被爆国が抱える自己矛盾もあるのは明らかだ。日本政府は究極的な核兵器廃絶を掲げつつも、日米同盟の下で米軍の核抑止力への依存を公言している。被爆地との深い溝でもあり、あいまいにしたままなら誰が何を言っても説得力はどこまであるだろう。

 その点では、湯崎英彦広島県知事が式典あいさつで核抑止力と核抑止論に疑問を投げ掛けたのが目を引く。被爆地として欠かせぬ視点ではないか。

 きのう市内のあちこちで営まれた学校単位の慰霊祭の一つで生徒代表の言葉が耳に残った。核廃絶の道筋を示せていないというオバマ氏訪問への批判は私たちに突きつけられたもろ刃の剣であるのだ、と。「これまで何をしてきたのか、これから何をするべきなのか自分自身に厳しく問い掛ける必要がある」。まさにその通りだろう。

 目の前のオバマ現象は一過性になる恐れがある。被爆72年、73年に向けた地に足が着いた発信の取り組みを、被爆地としてしっかり考えておきたい。

(2016年8月7日朝刊掲載)

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