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社説・コラム

『論』 戦没者の名を刻む 「忘却」だけは許されない

■論説副主幹・岩崎誠

 うだるような暑さも、のどかな田園風景に心洗われる。福岡県の筑前町立大刀洗(たちあらい)平和記念館を先月末、訪ねた。今は想像すらできないが、かつてこの地には「軍都」があった。

 東洋一と呼ばれた旧陸軍の航空拠点、大刀洗飛行場と関連施設が置かれ、大戦末期は特攻隊の中継基地になる。その足跡をたどる記念館が完成して7年。展示の中心はサイパン島から戻ってきた零戦の実物や特攻隊員の遺書などであり、映画「風立ちぬ」「永遠の0」の効果で来館者が増えたらしい。

 それだけなら正直、行きたいとは思わなかった。広島から足を運んだのは常設展示の一部として「追憶の部屋」があると聞いたからである。大刀洗に関係する戦没者の名前や遺影を壁面にずらり並べているが、特攻などで散った陸軍の若者だけではない。1945年3月、飛行場が壊滅した米軍大空襲で巻き添えになった住民も等しく追悼しているのが特色だろう。

 その場所に立ち、さまざまなことを考えさせられた。幼子が目立つのは飛行場から離れた森に避難した児童31人が爆死する悲劇のためだ。大刀洗上空でB29に体当たりした陸軍パイロットと、撃墜され死亡した米乗員たちが隣り合わせに並ぶのも象徴的である。軍も民間も、敵も味方も失われた命の重みは変わらないのだと実感する。

 地元以外でほとんど知られないこの追悼空間は「平和の礎(いしじ)」と通じる発想かもしれない。沖縄県が戦後50年の節目に沖縄戦終焉(しゅうえん)の地だった摩文仁(まぶに)の丘に置き、24万人余の犠牲者の名を軍民、国を問わず碑に刻む。亡き親族の名を指でなぞり、碑の前で飲み食いする沖縄らしい光景がよく報じられる。

 どんなに歳月を経ても先人が生きた証しである名前を心に刻み続けることが、どれほど大切か。とりわけ不戦の誓いと平和国家のありようが問われる戦後71年の日本において―。

 先の大戦の日本の戦没者は軍民を合わせて310万人。国内の戦災による一般人の死者は50万人。長く政府の見解である。この数字の持つ悲惨さが薄らいでいるのは確かだ。若い世代には歴史上の事件の域に入り、生身の問題として考えにくい。極端にいえば「ノーモア関ケ原」とは誰も思わないように。

 しかし一人一人の戦没者と向き合うことは「名前」さえあればまだ可能だろう。戦没者の数にしても抽象的な概念として考えるのではなく、個別の犠牲の意味を下から積み上げる草の根の発想から捉え直したい。

 むろん沖縄戦だけではなく、広島・長崎では原爆死没者の名前の掘り起こしに長い努力が続けられてきた。広島の学校単位の慰霊碑には死者の名が刻まれている。しかし全国津々浦々を見渡すなら、手をこまねいてきたところの方が多かろう。

 東京・三田の慶応大を訪ね、名誉教授の白井厚さん(86)に会ったのは名前を記憶し、追悼する意味を聞くためだ。1991年から16年の歳月をかけ、自らの研究として2200人を超す慶応の戦没者の名簿を作成したことで知られている。

 欧米の伝統ある大学は大抵、第1次大戦以来の戦没者の碑があり、名が刻まれる。なのに学徒出陣を含めて将来ある若者を死なせた日本の大学はその名前すら忘れてしまい、愛情が感じられない―。社会思想の研究者である白井さんが学生たちと名簿づくりに着手したのは満足な調査すらされていない現状への疑問からだ。「何とかしないと記憶が消えてしまう。命を落とした人が忘れられたままでいいのか」との危機感でもあった。

 慶応は卒業生のネットワークが強い。在学中に戦地に赴かされた学生ばかりではなく、戦前のOBを対象に加えた。学内外の人脈をたどって資料を集め、生存者の証言を聞く。そして名前を積む中で、全戦没者の半数近くが終戦の年に命を落とした事実も判明した。つまり仮に半年早く戦争が終わっていれば、日本の復興を支える人材がそれだけ生き残っていたことになるのだ。まさに無謀な戦争遂行の本質をさらけ出していよう。

 調査を振り返りつつ、白井さんは言う。「愛と憎しみは対で語られるが、憎しみは愛に転換し得る。愛というものの本当の対極は忘却なのだ」。まさに至言である。心ならずも戦争で命を絶たれた人の名を安易に忘れることは冒涜(ぼうとく)ではないか。

 思いが大学当局に届いたのだろう。いまだ未完の名簿づくりは福沢諭吉以来の慶応の校史をたどる福沢研究センターに引き継がれた。戦時下の在校生や卒業生の残した資料をデータベース化して公開を目指すアーカイブ・プロジェクトも3年前から始まっている。全国の大学でも特筆すべき熱意である。

 ただ戦没者追悼のスタンスは大学によって差がある。せっかく名簿をつくっても公開の際はイニシャルなどで実名を伏せるところも出始めたと聞く。個人情報の保護が理由である。

 匿名で戦没者を悼むことができるだろうか。個人情報保護法でいえば本来、死者は対象外であり、過剰な配慮が悲惨さを覆い隠しては元も子もない。

 最近、空襲犠牲者の死亡診断書や罹災(りさい)証明書などの名前の部分に紙を張った資料館などの展示も見かける。さらにいえば、空襲犠牲者の名簿はあっても遺族の問い合わせ以外は非公開の自治体が多数だろう。役所の倉庫などに名前が埋もれてしまえば「忘れる」のと同じだ。

 自治体で、そして地域や学校で。ゆかりの戦没者の名をせめて正確に把握する努力を今からでも惜しむべきではない。

 それを考えれば、戦没者の忘却を食い止める最大の責任が国家にあるのは言うまでもない。

 広島と長崎に国立の原爆死没者追悼平和祈念館がある意味はさらに重くなろう。そのことは館の成り立ちを思い返せばはっきりする。国による被爆40年の実態調査で1万2千人という原爆死没者の名前が新たに判明したのが発端であり、被爆地への「弔意」として現在の施設の整備に至った。つまり国による公式の追悼の場といっていい。

 登録された死没者の名と遺影は電子データにもなって原則公開されるが、その数は決して多いとはいえない。広島では2万1千人余り。30万人を超えた死没者総数を思うとごく一部だ。写真がなくても名前だけで登録できることが、よく知られていないのかもしれない。

 戦後、政府から補償はおろか顧みられることがほとんどなかった他の一般戦災の犠牲者のことを考えると、「名前を記憶する」国立の施設がどれほど貴重であるかが分かる。原爆にとどまらず国内外の全ての戦没者の名を日本という国がくまなく再調査し、データベースとして公開する。そして愚行を絶対に繰り返さない誓いとする。そんな営みが動きだすのは夢のまた夢なのだろうか。

(2016年8月11日朝刊掲載)

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