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社説・コラム

『潮流』 焦土での奮闘

■経済部長・吉原圭介

 原爆資料館で、背中一面にやけどを負った被爆者の写真を見た女児の反応にハッとしたことがある。「痛かったじゃろうね」。友人へのささやきは、こう続いた。「私ら、ちょっとの水ぶくれで泣きそうになる」

 今年の8月6日も、平和記念公園に人の波が途切れることはなかった。あの日は、仕事に従事していた人々も多くが犠牲になった。電気通信や損害保険会社、マスコミ…。それぞれ後輩や遺族がゆかりの場所で慰霊祭を営み、死没者を追悼した。節目の日は過ぎたが、あの日を生き延びた人たちの焦土での奮闘ぶりにも目を向けてみたい。

 例えば71年前のきょう。被爆から5日後、広島郵便局は生き残った局員と県内外からの応援も受けて窓口業務を再開させた。「広島原爆戦災誌」によると、家や家族が被害に遭った人に郵便貯金や簡易保険の非常払い出しの緊急処置をとるために駆け付けた職員の中には「家族を失い、葬儀も営むこともなく出局して働く人」がいたという。その胸中はいかばかりだったろうか。

 それぞれの社史などによると、広島電鉄は3日後の9日、己斐―西天満町の折り返し運転を始めた。中国新聞の配達が、他社による代行印刷で復活したのも同日付。中国配電(現中国電力)は翌7日に宇品地区一帯に明かりをともし、8日には広島駅前一帯などへ送電したという。芸備銀行(現広島銀行)は8日に営業を再開している。

 紹介したのはごく一部だが、被爆直後から焼け野原の中、いち早く市民生活を取り戻すため再開準備に駆け回った職員の大半は郵便局員同様、自らけがをしたり、家族や家を失ったりした人だっただろう。「つらかったじゃろうね」。復興を果たした今の広島でしばし、彼らの心中にも思いをはせることが、次の核や戦争被害を防ぐ力になると信じる。

(2016年8月11日朝刊掲載)

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