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疎開児童 望郷の便り おねえちゃんがすきじゃったのに… 広島の寺で見つかる

 第二次世界大戦中の1945年に広島市安佐北区白木町三田の西福寺に集団疎開していた呉市の岩方(いわかた)国民学校4年の男子児童1人の制服やノート、家族に宛てた投函(とうかん)前のはがきなど計26点が寺から見つかった。はがきには疎開し、家族に会えない寂しさがつづられている。寺は、持ち主に返すための情報提供を呼び掛けている。

 見つかったのははがき8枚、制服、薬、国語と算数のノート、クレヨンなど。制服の胸に名札が縫い付けられ、「西村恒雄(十才)」「昭和十一年二月九日生」と住所や本籍地とともに書かれている。児童の様子を心配する呉市の両親からのはがきや、大分県別府市の祖父とみられる男性から送られた手紙もある。

 児童が投函する前の家族に宛てたはがきも1枚見つかった。「おねえちゃんがすきじゃったのに、そかいしたのであはれないやうになりました」「それだからお父さん、お母さん、おねえちゃん、みんなのしゃしんをおくってください」と疎開生活の寂しさをしたためている。

 寺の福永和哉さん(42)が4月中旬、物置を清掃中に木箱の中に入っているのを見つけた。寺や呉市によると、同校の3~6年生計136人が、45年4月11日から呉空襲後の9月24日にかけて、白木町内の五つの寺に分かれて疎開。西福寺には、25人程度が生活していたとみられる。

 当時、児童を中三田駅で出迎えた三田郷土史研究会の山崎優会長(83)は「彼のことは覚えていないが、呉の方角の山を恋しそうに見つめる疎開児童の後ろ姿が印象的だった」と振り返る。呉市文化振興課によると、同校の疎開児童の物はほとんど残っていないという。

 福永さんは「呉の知人を通じて捜したが、本人や家族の行方は分からずじまい。どうして1人分だけ寺に残っていたのか謎だが、早く西村さんの元に返したい」と話している。西福寺Tel082(829)0134。(中川雅晴)

(2016年8月13日朝刊掲載)

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