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連載・特集

[Peaceあすへのバトン] 写真家・堂畝紘子さん 3世家族の絆 写し出す

 原爆や平和について考えてもらうきっかけになれば―。そんな思いで、被爆3世の家族写真を無料で撮り続けています。今年からは祖父母に当たる被爆者や、2世の両親も一緒に入ってもらい、1枚の写真で「記憶のつながり」を表現するようにしています。

 被爆70年の昨年からスタート。広島のカメラマンとして自分に何ができるか模索していました。平和活動には小学生の頃から関心があり、高校生の時は平和記念式典のボランティアもしました。ここで動かないと何もできなくなるという危機感を背負っていました。

 3世でもない自分がシャッターを切っていいのか、戸惑いました。しかし始めてみて、むしろスタートが遅かったと焦りを感じました。一緒に撮る予定だった被爆者が、撮影前に亡くなったのです。被爆者の高齢化をひしと感じました。

 本番は屋外で望遠レンズを使います。距離を置いて撮ることで、自分の気配を消し、家族の絆を写し出します。次に作品を展示して見せて、被爆について再び思いをはせてもらいます。3世が聞き取った被爆体験記も並べ、来場者にも伝えます。「自分も家族について知らないと」「被爆の事実に向き合いたい」。そんな声が寄せられました。

 本当は、平和関係の番組のナレーションや朗読をしたくて、声優になるのが夢でした。大阪の養成所で学び、東京の事務所に所属しましたが、アニメの仕事ばかり。当時の社長に「やりたいことは有名になってから」と言われ、辞める決意を固めました。それでは遅い。戦争で今この瞬間もなくなる命があるからです。

 もともと写真は趣味でした。高校の卒業式の翌日、偶然入ったカメラ店で一眼レフを衝動買い。「今を切り取って残せる」と思ったからです。東京では写真店でアルバイト。声優を諦めてからは紛争地で暮らす人を撮ろうと、戦場カメラマンを目指し、都内のスタジオで修業しました。

 しかし2010年秋に広島で長女を出産後、原発事故が発生。娘への放射線の影響が心配で、夫と別れて古里で暮らす道を選びました。シングルマザーでは戦場に赴くことはできず、広島でできるライフワークを探していました。

 「微力であっても無力ではない」。平和をテーマにした曲を歌うシンガー・ソングライター梅原司平さん(70)の言葉です。10代の時に聞いたこの一言が、今の活動につながっています。3世は被爆証言を直接聞き、行動できる最後の世代かもしれません。周囲を巻き込んで、続けていきたいです。(文・山本祐司、写真・河合佑樹)

どううね・ひろこ
 広島市安芸区出身。比治山女子高(南区)を卒業後、大阪、東京で声優を目指すが断念。趣味だった写真撮影の技術を磨く。出産後、東日本大震災、福島第1原発事故を機にUターンを決意。13年に出張撮影サービスを安芸区で開業。

(2016年8月15日朝刊掲載)

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